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【伊能忠敬と上田宜珍・頼山陽と肥後】(完)

【きょうの日乃出 6:32頃 快晴】
日之出2
【伊能忠敬と上田宜珍・頼山陽と肥後】本日を以て完了致します。

宜珍(ヨシハル)はその後も相変わらず庄屋として、熱心に各種の施設経営を行い、かたわら文墨(ブンボク)を楽しんで居たが、同じく文政十二(1829)年、年七十五歳を以て没した。彼の二十九年間に亘(ワタ)る里正(リセイ)としての偉大な業績は、その先師薮孤山(ヤブコザン)の学風に負う所が多いといわれるが、一方この忠敬(タダタカ)の感化(カンカ)に依る所も決して尠(スクナ)くなかった事と思われる。
「日本外史」「日本政記」の著書頼山陽(ライサンヨウ)が文政元(1818)年八月、長崎から島原を経て『天草灘に泊す』を詠(ヨ)み、熊本の小島(オシマ)に上陸し熊本城下に来た。山陽を迎える熊本の学者の空気はつめたかった。数日後山陽(頼)は薩摩に行き、十月に再び熊本に来り、『南遊菊池を過ぐ』の詩、菊池村老ゆ両三家、籬(マガキ)落秋暮鵜を見る。世芳根を守り晩節(バンセツ)を全(マット)うす、翠楠(スイナン)未だ必ずしも黄花(コウカ)に勝らず(楠氏の功績は菊池氏二十四代の功績に勝っていない)を詠(エイ)じ豊後の日田に行き、久留米に出て筑後川の流れに臨み、絶唱
『筑後川を下る』の詩ができたのである。昭和七(1932)年天草郡苓北町富岡海岸の砂丘に「泊天草洋」の詩碑が建立された。        (完)
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【伊能忠敬(イノウタダタカ)と上田宜珍(ヨシハル)・頼山陽と肥後】(三)

【田迎神社の前の公園に咲く白木蓮(はくもくれん)】
白木蓮
【伊能忠敬(イノウタダタカ)と上田宜珍(ヨシハル)・頼山陽と肥後】(三)記したいと思います。次回を以て完了いたします。

天草郡の西南部、支那海岸に面した此の高濱村の海岸に、『伊能忠敬舟返しの岩』というのが有る。堂々たる大海の波涛(ハトウ)断崖の岩を噛(カ)んで、平日でも白馬が深淵(シンエン)に躍(オド)って居る所である。
文化七(1810)年十月七日忠敬は昨日終わった大江村の海岸続きから、この高浜の沿岸を測量しようと思って、早朝、午前六時頃、それは珍しく遅い方である。いつもは大抵(タイテイ)四時から五時迄の間、三時や二時の時もある。宿を出て舟に乗り込んだが、折から吹き出した西風が強く、怒涛(ドトウ)岸を拍(ウ)って櫓擢(ロカイ)の立てようもない。それでも忠敬は、船頭を叱咤(シッタ)して無理に舟を出させたが、風は益々吹き荒(スサ)んで、危険この上もなく、雨さえ降り出して作業も出来なかったので、流石(サスガ)の彼も遂に断念して船を返し、陸上から測量したという話のある処である。
忠敬は同十(1813)年十一月十二日、天草を去った後も折々、宜珍(ヨシハル)と書面の文通などをやって来た。そうして文化十(1813)年、年六十九歳の頃、肥前の樺島(カバシマ)・野母崎方面の測量を最後として見事に日本沿海全部の測量を終了し、その後、文政元(1818)年九月、年七十三を以て逝(ユ)いた。     (つづく)

【伊能忠敬(イノウタダタカ)と上田宜珍(ヨシハル)・頼山陽と肥後】(二)

【きょうは、お彼岸の入りです。日乃出 6:32頃】
日之出3
【伊能忠敬(イノウタダタカ)と上田宜珍(ヨシハル)・頼山陽と肥後】(二)記したいと存じます。

富岡に於ける天草代官の命によって選定せられた島内の接待役は、中原新吾・酒井平太兵衛・吉田長平・橋口喜左衛門・上田源作の五名であった。これ等の人々は一行滞在中・・・その間五十四日・・・浦々島々に随行(ズイコウ)して、東道の主人を勤めた。この中、上田源作というのは天草の歴史を集成した『天草島鏡』等の著者たる上田源大夫宜珍(ヨシハル)のことで、国史・国文の道に詳しく、和歌は伊勢の本居大平(宣長の養子)の指導を受け、その門人録にも名を留(トド)めて居る人である。高浜村(天草町)の庄屋を勤め製陶高濱焼を拡大した事業家で、家道(カドウ)も豊かであるが、元来好学篤志(コウガクトクシ)の人であるから、特にこの作業の案内に興味を持ち、五十余日の接伴中(セッパンチュウ)、算数測量の学に就いても、種々忠敬(タダタカ)の教示を受ける所があった。忠敬の精到(セイトウ)なる学識と高邁(コウマイ)なる識見(シキケン)と、寛厚(カンコウ)なる人格と旺盛にして壮者(ソウシャ)を凌(シノ)ぐ精力とは、如何にこの宜珍(ヨシハル)を感激せしめたことであろう。宜珍は、この年、年五十六、忠敬より丁度十歳の弟であった。上田家は高濱の庄屋で、元禄年間(1688~1704)より同地の皿山(サラヤマ)を採掘して陶磁器原料として開発していた。宜珍(ノリハル)は地方行政は勿論、この皿山の経営にも大いに努力した。こゝの陶石は石英粗面(セキエイソメン)が風化分解変質したものである。   (つづく)

【伊能忠敬(イノウタダタカ)と上田宜珍(ヨシハル)・頼山陽と肥後】(一)

【けさの日乃出 7:01頃 雲があり遅れる。】
日之出2
【伊能忠敬(イノウタダタカ)と上田宜珍(ヨシハル)・頼山陽と肥後】(一)を記したいと存じます。

日本で初めて実測の精密地図を作った江戸時代の地理学者伊能忠敬は晩学(バンガク)であったことと、その日本沿岸測量の偉績(イセキ)とは、普(アマネ)く世人(セジン)の知る通りである。彼は寛政十二(1800)年以降、幕命により全国の測量したが、わが肥後の国天草群島の沿岸を測量すべく、文化七(1810)年九月十八日、六十六歳の老躯(ロウク)を提(ヒッサ)げて、薩摩の方から天草郡の大多尾(オオタオ)へ渡って来た。
幕府が彼の事業に与えた権限と待遇とは随分広大なものであった。一行(イッコウ)十八人・馬七疋・長持一棹(ヒトサオ)の大集団、宿所は測量機械据え込みのため、南北の見晴らしよく、且つ十坪ばかりの地面が入用である。そうして夜間、天文観測などの作業もあるから一行成るべく同居ができるよう、若(モ)し村方(ムラカタ)の宿舎が狭隘(キョウアイ)で、同宿出来なければ、成るべく近辺(キンペン)に宿をとらせる事、海岸の通行が出来ない所や、島々へは渡船の用意を致して置く事、村々の絵図面に、領主の姓名・石高・戸数・広狭(コウキョウ)・遠近の距離・寺社名所・旧蹟その他、あらゆる必要事項を記載した書類を添布して宿所へ持参し、村内通行の節は案内これあるべき事等、九州各地に対する幕府の『測量方』としての一行の通牒(ツウチョウ)は権威あるものであった。天草全島に於ても、無論この通牒(ツウチョウ)に随(シタガ)って一行の便宜を図り、且つその送迎に心を用いた。   (つづく)

【高本紫溟と二重の峠】(完)

【きょう、雲間からの日乃出 6:38頃 一瞬でした。】
日之出c
【高本紫溟と二重の峠】本日を以て完了です。

こうして先生は、文化十(1813)年十二月二十六日齢七十六を以て隈本城下に逝(ユ)かれたのである。墓は本妙寺山中にあって先生にゆかりも深い万松(バンショウ)の音が、その永遠(トワ)の夢を護(マモ)って居る。
その著書は大半西南の役に兵燹(ヘイセン)に罹(カカ)って烏有(ウユウ)に帰(キ)したようであるが、残存せるものに藩命を奉じて撰輯した『銀台遺事四巻』『同附録一巻』があって、紫溟(シメイ)が構思十余年、霊感公の善政を仔細(シサイ)に記したものである。その他阿蘇の土俗(ドゾク)を書いた『阿蘇布里一巻』及び『歌集一巻』、『細川氏系譜』等がある。
さて考えて見るに、高木紫溟(タカギシメイ)の思想は阿蘇時代に培(ツチカ)われたのであり、阿蘇神社及び阿蘇家の感化(カンカ)偉大なるものがあった。これが紫溟(シメイ)の古典・国学の興隆(コウリュウ)となり、引いては我が肥後人に敬神尊皇の精神を痛く叩き込み、後年に於ける肥後の勤皇運動に非常な刺戟(シゲキ)を与えたものである。かくて長瀬真幸より林桜園(ハヤシオウエン)の原道館となり、此処(ココ)より幕末に於いて勤皇運動の第一線に突進し、身命を抛(ナゲウ)って国事に奔走した勤皇人及び郷土の文連指導者等の多士済々(タシセイセイ)たる輩出を見ることゝなり、肥後文連の光華(コウカ)を輝かすに至った。大正五(1916)年十二月 贈正五位
もろこしも東風吹くたびに匂ふらし大和島根の花盛りは順天が下やすらけきかも阿蘇山の神のけぶりの末もみだれず順熊本に於ける紫溟(シメイ(の旧居の跡は川観亭(セミノヤ)と称し、友人門弟と常に雅莚(ガエン?)を開いた。二本木石塘から見える坪井川白川に臨(ノゾ)む清明幽邃(セイメイユウスイ)の境で古榎老桜(ロウオウ)の葉陰に懐旧(カイキュウ)の情を偲(シノ)ぶものがある。
時習館第四代の教授は辛島塩井、第五代近藤淡泉、第六代は片山豊嶼である。      (完)

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