『靏崎(ツルサキ)事跡について』

               【Sunset 2017.08.16 18:47頃】
                雲で隠れている山は金峰山
日没3
『靏崎(ツルサキ)事跡について』
一、靏崎茶屋ハ加藤肥後守清正の御時代に立給ふと云、右の大友茶屋とハ別所也、

一、大分郡高田庄鶴崎といふハ其地形琵琶(ビワ)の如し、故に弦﨑(ツルサキ)と名ツケたり、中比此所に喬松(キョウマツ、高い松)あり、数十囲アリテ枝サカえたり、常に白雀多く巣をくふ、これニよつテ靏崎とアラためたり、其東西大河ノ際に茂林種竹アリテ清潔の地ナリ、爰(ココ)に宇佐神官、同輩らと聊(イササカ)ノ口論によって神剱七振ヲ携(タズサ)へ当国に来り、当所国宗村高畠に趣き剱を所の樹下に安置し奉る、其後祠官等と和睦(ワボク)して本国に帰らんとするに、納るところの神剱三振をうしなふ、其霊蹤(ショウ)を尊ひて宇佐の神と号す、天正年中(1573~15929南蛮耶蘇の徒人民をたぶらかし神仏の社堂をこぼつ、社司・神護禪寺の僧是をうれいていのるに、神託ト云世静にして後に出べしと、これによって樹下に小祠(ショウシ、ホコラ)を繕て寒暑をワたる事数十年なり、こゝに正保(ショウホウ)二(1645)年乙酉年の冬十一月廿八日、樹下にいたりて薪(マキ)をとるに、木根より両釼の出現し給ふを見る、土人貴ヒ重して釼(ツルギ)八幡と称し神威漸(ヨウヤ)く顯れたり、翌年の春、太守(タイシュ)源光尚公東国より霊応を聞せ給ひ修営すべき旨の厳命あり、秋七月よりはじまりて冬十月にをはる、示現し給ふ月日、宇佐の祭時を用て毎年九月をゑらびて十五日を奠日(デンニチ?)とす、故に土人氏神とす、且寺僧寺務ハ社事とを混乱せしむるを以て山伏某を令住て権りに鍵鑰(ケンヤク)を司らしむ、万治庚(カノエ)子(1660)の夏、邦君(ホウクン)御帰城の頃社司を野津原の駅に召て令してのたまはく、国守海陸安寧の懇願を抽て奉るへしと、則南鐐(ナンリョウ)弐拾匁を奉納し給ふ、

一、蔵剱ハ享保四(1719)年己亥ニ至て弐百余年也、

一、出現ハ正保弐(1645?)年丁酉十一月廿八日、享保四(1719)年ニ至て七十五年也、

一、靏崎川口御番所に田代某といふもの有、生所ハ肥後国熊本也、
壮年の比(コロ)御城下に勤仕し後ニ此所ニ勤番す、慶安三(1650)庚寅二月五日の夜本国氏神藤崎八幡三所の神詫(託)を夢中にかうふり、惑応をたつとひ尊像を求めて神霊を勧請し、居所のかたはら六十歩を隔、松樹の下に禿倉(ホコラ)を建て安置し奉る、

右靏崎にて申伝へ侯事を承わり書記申侯、
                          吉岡氏書云々

右妙林尼の事審于大友興廃記焉、于時文政五(1822)年閏正月十六日写之畢(オワル) 
                                         大石真麿
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【靏崎合戦記并靏崎之事蹟】(下)

        【我が家の胡蝶蘭、多肉植物、シクラメン】
胡蝶蘭1

【靏崎合戦記并靏崎之事蹟】は、きょうで完了致します。次回は「靏崎事蹟」です。

妙林(ミョウリン)かねてたくミし事なれば、靏崎(ツルサキ)の南の入口琵琶の首とて左右は大河にて細道一ッある所あり、かの細道に穽(オトシアナ)をほらせ、寺司靏崎に伏兵を置て相待たり、薩广勢は夢にもしらず此路(コノミチ)にかゝりし時、妙林が兵共一度におこって鉄炮を放チかけ、妙林さきにすゝんで打かゝりしかバ、薩广勢仰天して防ぎかね、或はうちころされ、又ハ穽(オトシアナ)に陥り、野村越中守父子をはじめ大勢うたれ、中務(ナカツカサ)・新納・白浜も命辛々(イノチカラガラ)にて迯(ニゲ)散けれバ、妙林おもひの儘(ママ)に仕すまして勝鬨(トキ)あけていさミけり、彼妙林尼(ミョウリンニ)の働キ古今希(マレ)なる事なりとて、宗麟(ソウリン)より麟の字を賜り妙麟と名替り、靏崎村に大友代々茶屋あり、従臣吉岡掃部助鎮興ハ当国大分軍の大将にて此茶やを預り在番す、靏崎ゟ(ヨリ)河を隔西にあたりて千歳村土井ノ内といふ所に城をかまへて居住す、鎮興ハ豊前国妙見岳田原紹忍が城番の時、彼所において竜造寺と秋月と合戦の砌(ミギリ)戦場にて討死す、鎮興子吉岡越中家督を継て同ク備の大將也、日向国耳川の戦の戦死す、其子吉岡甚橘若年なる故曾祖父三河守宗観か妻明林尼養育して、豊後落去の後は田原与兵衛ニ勤仕ス、彼与兵衛ハ松野半済の事なり、明林尼の墓所靏崎にて尋るに不分明、妙林尼此軍の時は二人持の鎧(ヨロイ)を着し四尺八寸の刀を帯したりと云伝たり、   (完)

【靏崎合戦記并靏崎之事蹟】(上)

                【百日紅 散歩時撮影】
百日紅

【靏崎合戦記并靏崎之事蹟】(上)をきょうは、記したいとおもいます。

【靏崎合戦記并靏崎之事蹟】
天正十四(1586)年十月、薩州の太守(タイシュ)嶋津義久の下知(ゲジ)として、家臣嶋津中務(ナカツカサ)を大將として新納美濃守・野村備中守、白浜周防守以下五千余キ豊後国に攻入り、靏崎より南の方三里ニあたって利光越前守宗兼か篭りたる靏か崎におし寄て、夜を日に継てせめかゝる折ふし、太閤秀吉公薩广御征伐のため御下向(ゲコウ)有へき旨、上使として長曾我部土佐守・仙石權兵衛を豊後に差下さる。彼両人も加勢のため宗魚(兼)に心を合せ、利光河原に打出たり、両勢互ニ軍を始メけれバ両使も共に相戦ふ、長曾我部宗魚も戦負て各討死して名を残しけり、此城落けれハ薩广勢猶(ナオ)臼杵の城に押寄ける、此城は大友宗麟の隠居城也、無程太閤御下向まし/\ける故宗麟・義統(ヨシムネ)も豊前国小倉に在陣せらる、居城の留守にハ吉岡か母妙林尼(ミョウリンニ)計(バカリ)也、此妙林尼ハ女なから強力猛勇万人の越たる者なれバ、近郷の者共かり集め臼杵の城に楯篭(タテコ)もり、さつま勢を引受数日の戦に敵をうつ事数しらず、然(シカ)りといへ共敵ハ目にあまる大勢なれバ、始終たもちかたくおもひける故、妙林(ミョウリン)偽て降を乞、城をわたし靏崎に引退て居たるける、薩广勢ハ臼杵に居て越年す、妙林方より種々の酒肴をおくりける、年明ケけれバ秀吉公不日の御下向と急を告ける故、臼杵に有しさつまの四將も国許(クニモト)心もとなしと評議し、肥後通り可然(シカルベク)とて靏崎をさして打越けり、妙林も出て暇乞し我身も頓(ヤガ)て薩州へ參るべきなどいひけれバ、さつま勢も心をゆるし気を甘遣たり、           (つづく)

【天草由來記】(完)

             【きょう散歩時に撮した花(ユリ?)】
花5
【天草由來記】今回を持ちまして完了致します。

天正十六(1588)年ゟ寛■(延)三(1750)年迄百六拾参年ニなる(寛永四(1627)未年ゟ当寛政九(1797)巳年迄四拾七年、前後年数合弐百拾年ニなる)
一、天正十六(1588)子、肥後国宇土御城主小西摂津守殿御領地被成、慶長五(1600)子年迄数ヶ年、

一、同十七(1589)年丑ノ年、志岐・本戸御破城、

一、慶長五(1600)子年、摂津守殿、石田治部少輔ニ与し給ひし故に没落ニ相成申侯、依之小西殿跡を 家康公ゟ(ヨリ)加藤主計頭(カズエノカミ)殿へ御加増ニ成豊後靏崎を添被下侯、此天草御領地ニ被 仰付侯、

一、同六(1601)丑、加藤主計頭殿御領地ニ成、

一、同七(1602)寅、右同、此秋迄丸弐ヶ年加藤家御領地ニ相成侯、

一、同八(1603)卯、肥前国唐津御城主寺沢志摩守御領地ニ成(寛永十(1633)酉年迄参十壱ヶ年)
今年富岡新御城建、又唐津ゟ(ヨリ)天草迄ハ行程四十二里有之、海陸遠方ニ付於天草壱町田・栖本・大矢野三ヶ所ニ役人をさし置れ夫々(ソレゾレ)支配所御定有之、同年天草領都て御給地有之、高四万弐千石余、尤(モットモ)塩浜・塩釜・漁方等も高の内相成侯、

一、寛永十(1633)酉年、今年寺沢志摩守殿御死去、御息男寺沢兵庫守殿御領地成(同十四年丑迄五ヶ年)

一、同十四(1637)丑年、今年天草切支丹一揆蜂起、十一月十四日四郎勢嶋原ゟ(ヨリ)本戸(ホンド)え押寄八ッ時分ゟ合戦有之、富岡の御城代三宅籐兵衛殿広瀬村ニおいて御討死被成侯(御廟所広瀬峠に有之也)、夫ゟ(ソレヨリ)四郎富岡の城え押寄けるがさん/\敗北、一揆大勢討死有之、嶋原原の城え引取、四郎一乱の始末委く別書有之、爰(ココ)ニ略ス、

一、同十五(1638)寅、寺沢殿、四郎一乱ニよって終に没落、二月廿八日ニ一揆楯篭所の嶋原原の城没落、邪徒不残御誅罰(チュウバツ)有之、嶋原・天草一統ニ静謐(セイヒツ)、御使原の城ゟ直ニ富岡え御越、六月迄御逗留、御支配有之(以下略之)
                  (完了)

【天草由來記】(三)

          【Sunset yesterday 18:49頃】
Sunset4

【天草由來記】(三)をきょうは、記したいと存じます。

一矢まゐらせんと被申侯て、五人ばりニ十五束大かりまたを打つかひ既ニ矢放せんとする処、清正かしこき大將ニて、大將の勝負にとび道具ニてハ叶まじ、太刀打ニまゐらせんと、持たる十字架の鑓をからりと捨られける、弾正(ダンジョウ)も何程の事かあらんと弓と矢を捨、太刀をぬひて打てかゝる、此時清正捨たる十字架の鑓おつ取、弾正をつき給へバ、弾正の股ぐらに突込み侯てはね給ふに、弾正たをれさまに鑓の片鎌を切落す、此時佐々殿を賴来居侯武者修行阿波鳴戸之助、佐々殿滅亡以後ハ小西殿を賴ミ參居侯が、此節清正公と一同に此責口ニアリシガ、清正公弾正を鑓突き給ふを、右の鳴戸之助申侯ハ、彼首をバ我等に給侯へと申侯へは、清正公被仰侯ハ、相討とこそ申もの也、よって首を取れと被仰侯ニ付、立寄首を取らんとすれども、弾正手負なから右の鳴戸之助とむずとくミ、ゑひ/\とねぢ合しが、鳴戸之助運やあしかりけん、うしろの岸をふミはづし、木の根に足を引かけて戌亥(イヌイ)の方へたをれける、弾正上乗りかゝり首をかゝんとする処ニ、清正の大將庄林隼人(壱万石也)かけ合せ、上なる弾正の右のかいなを打おとせハ、鳴戸之助下よりはね返し、其儘(ソノママ)弾正か首をかきて立あがりし所を、敵人来て鳴戸之助を一矢に射たふし申侯よし也、夫(ソレ)より志岐敗軍、終(ツイ)ニ落城ニ及び、城主林専(リンセン、麟泉)ハ薩广をさして落城行けるが、子孫于今薩广え有之、志岐林右衛門と名乗よし、扨(サテ)栖本・大矢野・壱町田三ヶ所城主ハ数戦の後小西摂津守殿ニ降参いたされけり、後ニ小西殿、石田治部少輔(ジブノショウ)三成ニ与し関原の軍ニ打負給ひ、遂に御滅亡ニ相成侯付、肥後一國を家康公ゟ(ヨリ)加藤主計頭(カズエノカミ)殿へ被下侯付、いづれも加藤家に御奉公被申侯、寛永九(1632)年加藤忠広公御改易にて其跡を当細川家え被下侯ニ付、彼家ニ奉公いたし、于今御家中に有之由、天草・栖本などニ侯、右五人衆御領地の内、元亀(ゲンキ)元酉(1570)年天草庄屋役定り、村数八拾八ヶ村なり、天正十七年に天草五人衆の領主断絶いたされ侯し事、          (つづく)