【拾集昔語三】(二十六)

           【胡蝶蘭、4輪目の花が咲き出しました。】
胡蝶蘭3
            【頂いた胡蝶蘭の花が咲きました。】
胡蝶蘭2

【拾集昔語三】(二十六)をきょうも記したいと思います。面白くないと存じますが、ご覧頂ければ幸いです。

          『同郡南早川村三社神明之事』
一 益城郡甘木(アマキ)之庄早川村に御座候嚴島(イツクシマ)明神熊野(クマノ)權現(ゴンゲン)天満天神合て三社は七半濟(ナナハンセイ)と申在々の惣産神(ウブガミ)にて侯

一 右三社之内嚴島(イツクシマ)明神本社にて侯彼(カノ)明神早川村に跡を垂(タ)れまします由來は
光仁天皇之御宇寶龜(ホウキ)二辛亥(カノトイ)(771)年諸國一同に飢餓疫災無難之祈祭可勤行(ゴンギョウ)之旨 勅諚(チョクジョウ)御宣下之砌從安藝(アキ)國嚴島明神を奉勸請之迎使(カウシ)の關越後守と申仁嚴島に参詣神軀を笈(オイ)に奉納荷負早川に歸り龜島(カメシマ)と云ふ靈地に宮建崇敬仕來侯彼(カノ)龜島を宮立以後宮島と改め宮島明神とも嚴島明神とも奉申侯彼(カノ)宮島當りの田地のさげ名と云物に宮島/\と帳面に書侯事此の由緒(ユイショ)にて侯只今茶山成り侯所之事にて侯

一 關越後守勸請(カンジョウ)歸村之砌神納之笈(オイ)を村中貴賤之仁人各令參迎奉拜各其笈(オイ)を荷負致侯所を其故事を以負其笈(オフソノオヒ)と申所有之侯そのおひをおふと書申侯當分あやまり侯ておそのをと仁人(ヒト/\)遠近に不限(カギラズ)申侯其笈を納侯處笈の島とて地形小高き森於于今有之侯

一 彼(カノ)嚴島宮從前々右之通に宮島に宮立有之侯處に人倫離たる地にて侯故非人乞食不斷穢氣(フダンエケ)多ク火之要心旁令迷惑侯上殊更(コトサラ)頃年迄は順禮多く彼宮地にて酒狂喧嘩同士/\事多く産子(ウブコ)中令迷惑寛文第五之秋其砌(ソノミギリ)之御郡奉行弓削太郎右衛門殿牧八郎右衛門殿迄其砌は當所之惣庄屋木倉(キノクラ)太郎兵衛にて彼仁之取次にて右之通に社司は勿論産子共迷惑仕侯間前々之神森三社明神之拜所矢滿下(ヤマシタ)小市郎森之神地に遷宮(セングウ)之願言達(ゴンタツ)木倉氏委細被取成願之通に御免許にて其上宮島社地之竹木被爲拜領遷宮(セングウ)仕侯先々不取敢建立侯て頃年愚老(玄察)獨願(ドクガン)他力を不請修建如此(カクノゴトク)に侯修建之段委敷愚老年々諸事之覺書に書付置侯通に侯併貞享(ジョウキョウ)四丁卯(ヒノトウ)ノ(1687)年正月十二日より大工七人小屋入四月十二日成就(ジョウジュ)委敷棟札にも記置侯

一 熊野權現は壽永二(1183)年三月三日に小市郎大納言と高位之仁紀州熊野山より勸請(カンジョウ)下向彼大納言を靈神と崇(アガ)め置侯則(スナハチ)小市郎森楠樫之木是也小西氏大楠を剪船をつくられ侯其きりかぶの榾(ホタ)當分有之侯右之通前書にも書出侯大船一艘作り枝にてほそきくりふね七艘作り侯由語傅侯    (つづく)
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文民統制(civilian control of the military)きかず ?!

某氏のコラムを紹介します。ご覧下さい。

『太平洋戦争中の1944年、台湾沖航空戦と呼ばれる戦闘が起きた。鹿児島の前線基地で、米軍艦船を沈めたとする戦果が次々と黒板に書かれていった。「撃沈」「轟沈(ごうちん)」。
生還したパイロットたちの報告に疑問を持ったのが情報参謀の堀栄三だった。
「どうして撃沈だとわかったか?」。根拠を問い詰めると、あいまな答えばかりが返ってくる。
「この成果は信用出来ない」と大本営に電報を打ったと『大本営参謀の情報戦記』で述べている。
しかし堀の電報は重視されなかったようだ。国民には華々しい戦果が発表され、米軍が受けた損害を過大に見積もった上での作戦が組み立てられた。
好ましい情報は誇張し、都合の悪い情報は軽んじる。そんな姿勢は、あまりに多くの日本兵の死をもたらした。
旧日本軍と同列には語れないが、過去の教訓が生かされていないのではと心配になる。
南スーダンでの陸上自衛隊の活動を記した日報の扱いである。
存在するのに「廃棄した」として情報公開の求めを拒み、データの削除までしていた疑いが明るみに出た。
「宿営地5、6時方向で激しい銃撃戦」などと書かれた日報である。自衛隊派遣を続けるのに支障になると誰かが忖度(そんたく)し、なかったことにしようとしたか。
目先の都合を優先し事実や報告をないがしろにする体質が透けて見えないか。
何も知らされていないと言う稲田朋美防衛相が、組織を統率できていないことは明らかだ。そのもとで、事実はどこまで解明できるのだろう。』

【拾集昔語三】(二十五) 渡邊玄察著

                【けさの日乃出 6:31頃】
          霧が発生していた為、若干、霞んで見えます。
日之出4

【拾集昔語三】(二十五)をきょうも記したいと存じます。
著者である渡邊玄察が子々孫々に書き残したいが為に書いたような気が致します。
次回は、『同郡南早川村三社神明之事』です。同郡とは下益城郡の事であります。

『同郡南早川村古城之事、渡邊氏色々之事』の続きです。著者である玄察の祖の事を書き残したいが為に、このように長文になったようです。ご勘弁下さい。

一 右愚老(玄察)伯父(オジ)九郎右衛門獨子(ヒトリムスコ)助兵衛と申侯て有之侯只今の助兵衛舅(シウト)にて侯當分の助兵衛は故助兵衛惣領娘に入聟(イリムコ)に呼侯を當分助兵衛と申侯然者(シカラバ)故助兵衛弟は只今之宗圓(ソウエン)にて侯彼(カノ)宗圓右九郎右衛門養子二男に罷成侯根元は關ヶ原(セキガハラ)御陣之砌(ミギリ)柳川立花殿石田治部小輔(ジブノショウ)三成方にて御座候故御配所に其以後立花殿被成御逢侯彼(カノ)立花之家は日本無雙之武家にて殊更(コトサラ)高麗御陣にて彼立花之軍立(グンリウ)━加藤清正公御知覽被成侯故立花家にて軍立有名(グンリウウミヤウ)之侍五十餘人立花殿御配流之砌(ミギリ)清正公被成御抱若若(モシ/\)立花殿目出度被成御歸城侯者可被成御返シとの御約束にて被召置侯に其御人數一分之中に佐田清兵衛と申侍有之侯に知行(チギョウ)二百石被遣置侯彼佐田氏之知行(チギョウ)當早川村當分之十右衛門木左衛門源兵衛作左衛門兵左衛門などが祖父之御給人にて侯當早川村の知行に在宅被召侯と數年在住被召侯由に侯然ば右愚老(玄察)が伯父國代落去わきにて彼(カノ)九郎右衛門侍之位方(イカタ)もうせ不申侯上に清正公に御目見仕り所中(トコロヂウ)は勿論諸方之仁人(ジンジン)おぢはぢ致侯を兼々在宅故御見分侯ての上故本腹之末子當歳子殊更(コトサラ)佐田氏之内方(ナイホウ、ウチカタ)は筑紫主水正と申侯て是又(コレマタ)故事有る侍にて侯其娘則(ソノムスメスナハチ)佐田氏之内方にて侯彼末子を佐田氏方より次男分に右九郎右衛門に遣(ツカワ)し可申と御座候て遣し被申侯を養育致立被申侯則(スナハチ)當分之九郎右衛門入道之事にて侯彼(カノ)佐田氏は新田左中將末孫にて證文慥(タシカ)に有之侯彼佐田氏島原御陣之折節板倉内膳殿御同前に討死(ウチジニ)被致侯島原記にも見來(ケンライ)侯佐田氏之事にて侯然者(シカラバ)立花殿被遊御免侯而歸城被仰付侯て柳川へ被成御歸國侯故加藤清正公御約束にて被召抱(メシカカエ)たる柳川侍にて侯故五十騎被成御返則(スナハチ)一同に右之佐田氏も歸在之上にて以後島原にて右之通の侯
右之色々不入事ながら書出置侯は世上(セジョウ)にて令見聞侯に先祖之事ぢいばゝか樣 /\如此(カクノゴトシ)と明白に咄(ハナシ)侯衆存侯衆少く被問侯ても問侯ても不埒(フラチ)互に令迷惑事多侯而いかゞ敷侯事を折々令見聞侯故爲念書出置侯此書付共を外に出しむかしはか樣/\などゝ名聞じまんにせよさせ侯はんとては書付不召置侯間此書共外見なく心に覺爲可被申に侯

【拾集昔語三】(二十四) 渡邊玄察著

             【昨日 6:08頃の空模様 曇天】
空模様1

【拾集昔語三】(二十四)をきょうも恐縮ですが記したいと思います。お読み頂ければ幸いです。
『同郡南早川村古城之事、渡邊氏色々之事』のつづきです。玄察始め醫(医)業に携わっていたようで、加藤清正公の持病である「疝気」も京都から名医である鈴木法橋就堅(ジュウケン)を呼んだと、興味深い事が記してあります。

一 愚老(玄察)前々より醫(イ、医)業勤來侯分ケは右又太郎念佛心者にて侯へ共眞宗にて在家之出家故八代に西友鴎先生と申侯て日本に先生の位階被遊御勅許(チョッキョ)侯醫は此友鴎迄にて以後延壽院玄朔東井(ゲンサクトウセイ)先生と被遊御勅許侯初位之友鴎先生之一之弟子に右之又太郎入道空圓(クウエン)被罷成侯而醫業をも勤居被申侯に付亡父(吉政)若輩にて伯父空圓にて醫術之様子被致修傳侯折節に加藤清正公御終病(ゴシウビヤウ)之砌(ミギリ)清正公被仰出侯は京都にて高醫之外(ホカ)に療治宜く相勤侯醫(イ)を被召下被成御逢度被思召侯京都にて左樣之分ケは存侯者有之侯哉と御家中に被成御尋侯處に佐渡(サワタリ)越前守(秀家)浪人仕京都に暫く罷在侯段達上聞右之通被成御尋侯へば京都二條玉屋町と申に罷居申侯に近町に鈴木就堅(ジュケン)法橋と申侯て被仰出侯通之醫罷居申侯旨被申上侯扨(サテ)は越前(秀家)罷上同道仕罷下侯へと被仰出侯に付急速に上京同道被申鶴崎(ツルサキ)に著船被申侯へははや(早)被遊御逝去侯との御飛脚(ヒキャク)鶴崎へ被差立御銀子百枚被遣侯越前(秀家)に上方(カミガタ)醫被罷下侯へは此禮(コノレイ)銀進候て御船頭に御差紙被遣侯て上方へ送り申侯へとの御書出參侯就堅(醫、ジュウケン)に右之通被申達侯へは御銀子(ギンス)は返上侯而就堅儀者無妻子者(独り身)にて侯間肥後に參越前所へ逗留(トウリュウ)仕久友(キウユウ)にて御座候間秀家(ヒデイヘ)と古今の咄(ハナシ)共致延氣(ノンキ)仕罷上可申と被申侯故幸(サイワイ)と御座候て肥後御城下に被召置侯御扶侍(フジ)被遣侯をも被致返上やつぱ自飯(ジハン)にて秀家(越前)屋敷に被罷在侯故越前守渡邊軍兵衛従弟(イトコ)と申し軍兵衛取持(トリモチ)を以(モッテ)加藤家御家に有附き被申侯故互に懇情侯故亡父(ヨシマサ)若輩久藏と申侯砌是非共彼(カノ)法橋(就堅)之弟子に致侯樣にと秀家達而被申侯故其弟子に亡父(ヨシマサ)罷成り醫之傳受(デンジュ)被致侯加藤右馬頭殿同平左衛門殿も彼(カノ)就堅(醫)御國に逗留を珍重に思召侯處に忠廣公御袋樣分(ブン)之御した殿と申御上良衆(ジヤウラシユ)難病を彼(カノ)就堅療治能被仕立進候以後都牀敷(ユカシキ)侯とて上京侯に亡父(吉政)供致し罷上六七年在京致し被罷歸侯左候へば就堅一之弟子は右之通亡父(吉政)にて侯故少々御扶侍(フジ)被下侯而御人數一分之御手醫之中に可被成御加侯と折々被仰出侯由に侯へ共右之通前々より分ケ有之侯社方(シャガタ)故自退(ジタイ)侯而如此(カクノゴトク)成りはて被罷居侯社職迄にては當分渡世(トセイ)不如意之故右之通にて同氏人一言まで藪醫(ヤブイ)四世にて侯  (つづく)

【拾集昔語三】(二十三) 渡邊玄察 著

          【昨日散歩中に撮した櫻の花】
         少しずつ櫻の開花が始まり出しました。
櫻1

【拾集昔語三】(二十三)をきょうも記したいと存じます。お読み頂ければ幸いです。 

一 薩摩之軍人發向之事右に書出侯所に書出可申を思ひ出し/\正本とてはなく書出侯故令失念又は思ひ出し不申爰(モウサズココ)に書出侯渡邊又太郎右に書出侯通に佛道に思ひ入深く早々若輩之舎弟孫四郎と軍兵衛前名之砌(ミギリ)當社之權大宮司役相譲られ侯然(シカラ)は右に書出侯通に薩摩人數先に肥後へ令發向侯故軍兵衛は神主公之御母子に附添廻り相勤申侯跡之儀は舎弟之又太郎留守居被致侯に薩摩亂坊之惡兵人共多勢八代より中山砥用甲佐へ令亂入(ランニュウ)侯故に妻子は砥用(トモチ)と五家(ゴカ)之境早楠(ハヤグス)と云山家は分ケ有之者之處に忍ばせ玄蕃と申古老に當所三社之御證文(ショウモン)阿蘇殿御代々より被下侯御折紙御感状渡邊家之證文嚴島(イツクシマ)宮御寶物漢竹之笛其外(ソノホカ)少々金砂共もたせ横野村山之奥黑岩と云所に令忍隱(ニンヲン)被罷在候處に數人之亂妨敵令見來(ケンライ)侯に付玄蕃元來(ガンライ)武勇者にて令一戰侯又太郎も見事すゝみ被申侯て主従にて兩人討取(ウチトリ)侯間に玄蕃せおひ侯箱を各かたにかけ何地ともなく迯(ニゲ)去侯玄蕃追かけ可令一戰侯間是非おち侯へと達而申侯故又太郎おち被申侯間に玄蕃討死(ウチジニ)致侯由に侯就夫(ソレニツイテ)證文色々令散失口惜(クチオシ)侯

一 右にも少々書出侯通に愚老伯父九郎右衛門妻女は伊津野四郎右衛門娘にて侯伊津野四郎右衛門は伊津野山城守之敵東之掃部を討取(ウチトリ)侯此段右に書出侯彼(カノ)四郎右衛門は伊津野山城守之妹姻(イモウトムコ)にて侯扨は九郎右衛門女房は伊津野氏孫(マゴ)にて侯

一 亡父(吉政)妻愚老が母は右に書出侯村山丹後守家ノ侍鹿之末(カノスエ)安藝守が孫にて侯

一 乍前後(ゼンゴナガラ)又は右にも書出侯へ共類よせにいやがき致置侯軍兵衛之親父(オヤジ)熊之庄合戦に阿蘇殿御用に討死(ウチジニ)被致侯渡邊右衛門太夫吉久(ヨシヒサ)愚老曾祖父は早川城主式部少輔邦秀(クニヒデ)之惣領聟(ムコ)にて侯早川城主右に書出侯通に元來渡邊にて侯此段は右にも書出置侯     (つづく)

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