【合志(コウシ)城】(下)

【サンスベリア(虎の尾) 花の芽が出てきました。】
虎の尾1
【合志(コウシ)城】(下) をきょうも記したいと思います。2回に分けて記しております。

天正七(1579)年、肥前の龍造寺(リュウゾウジ)隆信が隈部親永(チカナガ)と組んで、江上家種らを將として大軍を肥後に進入させ、合志親爲(チカタメ)には甥(オイ)にあたるといわれる隈府(ワイフ)城主の赤星統家(ムネイエ)の重臣星子中務丞廉正(ナカツカサカノジョウカドマサ)の居城長坂城(長迫城ともいう。山鹿市長坂)を攻めた。このとき八月一日の戦いに、親爲の長男の合志親重(隆重、親泰ともいう)は長坂の北方に布陣して、二子塚を本営として城を攻める龍造寺、隈部連合軍と戦った。大激戦となったが、合志家臣の大津籐左衛門が裏切り、合志方は八百人もの死傷者を出し、合志城へ退却したという。合志系図には、明存坊律師、一専、隆賢、章峰ら多くの合志一族がこの戦いで死んだと書いてある。翌八月二日、長坂城は攻め落とされ、星子廉正(カドマサ)は自刃(ジジン)した。翌年の四月十八日、再び肥後に進入した龍造寺勢は、赤星統家(ムネイエ)の隈府城を攻め落とし、統家は合志城に逃げこんだ。
合志親爲は天正十(1582)年ごろには宣頓(セントン)と号し法体(ホッタイ)となり、家督は子の親重に譲っていたらしい。
なお、親重は天正七(1579)年の戦いの記録には親重という名でているが、天正十年ごろから、島津方の武将上井覚兼(ウワイカクケン)の日記には親泰(チカヤス)という名ででてくるので、最後には親泰といっていたようだ。
天正九(1581)年八月、相良義陽(ヨシヒ)を降伏させた島津氏が肥後に入ってきた。天正十年から十一年にかけて合志親泰(チカヤス)はしきりに島津氏と和平交渉をする。しかし、合志氏が大友方の甲斐宗運と親交あるということで、島津氏は合志氏を信用しなかったようだ。天正十二(1584)年二月には、合志氏が島津方と結ぼうとしているのを察知した龍造寺の兵が合志城を攻める気配がみえ、合志氏は島津方に援兵を要請している。しかし、島津方は動かなかった。家督の親泰にかわって、宣頓(セントン)がしきりに島津氏に懇願して、やっと島津氏の許しを得たのであったが、天正十三(1585)年九月二日、島津義弘(ヨシヒロ)が占領した御船城に入ったとき、宗運の居間であった部屋から、宗運にあてた合志氏の手紙が数通発見され、その内容からやはり合志親泰は許せないと決定した。この時期には、親泰、宣頓父子は、もう戦おうとしなかったらしい。上井覚兼日記には、九月五日、合志親泰は城を島津方に渡し、島津方の新納(ニイロ)忠元、稲田新介の二人の将が無事に城を受け取った、書いてある。合志親泰は身柄を大口の羽月(ハツキ、鹿児島市大口市)におくられることになり、その夜は小山(熊本市)に一泊して、大口へ向かった。親泰は大口で殺されるのであるが、猿渡信方聞書(キキガタ)という文献に、羽月地頭の猿渡越中守信光が、合志殿など女子も含めた五十人ほどを天正十五(1587)年になって城に呼び入れて、一人のこらず討ち果たしてしまったとある。
地元の文献である合志川芥(ゴウシセンカイ)などには、合志落城の際、天正十三(1585)年のこととして城、島津連合軍と、合志家臣の石原狩野亮、合志対馬を将とする合志軍が今石砦(イマイシトリデ)で激戦を交えたと書いてあるが、合志宣頓や親泰は戦わなかったことは確かである。宣頓(セントン)の最期は明らかでない。
菊池郡泗水町に、合志親爲の菩提所宣頓寺(セントンジ)があり、宣頓の逆修碑(ギャクシュウヒ)や親泰の墓碑がある。
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【合志(コウシ)城】(上) (菊池郡合志町大字上庄字城山)

【けさの日乃出 5:19頃 晴れ】
日之出3
【合志(コウシ)城】(上) (菊池郡合志町大字上庄字城山) を2回に分けて記します。

天正八(1580)年 四月十一日 、隈本城を出陣した城親賢(チカマサ)は、御船城を攻めるために兵を進める途中、託麻原(熊本市帯山、健軍町一帯)で御船から出てきた甲斐宗運の軍勢と出合って戦いになった。前月の宗運との最初の戦い、白川の丹過の瀬(熊本市世安橋付近)での合戦で、兵力を失っていた親賢は、合志城(菊池郡合志町)の合志親爲(コウシチカタメ)に援助を求め約束をしていたので合志からの援軍をあてにして戦っていたが、合志軍は姿をみせず、親賢(チカマサ)はこの戦いでも勝つことができなかった。
この朝、合志親爲は兵を率いて合戦場へ向かったのであったが、途中でふいに兵を返して城へ帰ってしまった。
昔、親爲の父親が狩りをしたときオオカミを殺したが、その日から急に発病して、ほどなく死んでしまったことがあって、それ以来、オオカミは合志家では不吉なものとされていた。進軍の途中、オオカミの鳴き声を聞いた親爲は、戦いに負ける不吉な前兆ではないかと恐れ、兵を返したのであったという。親爲は物忌(モノイ)みの多い人であったといわれていて、ちょっと外出するにも暦を調べて日柄を確かめて、方向を占い、また一生、北に向かって座ったことがなく、どうしても北の方へ行かなければならないときには、顔をそむけて進んだほどであったといわれる。
親爲はこうした人であること、また戦いには強い武将であることも知っていた策士の甲斐宗運が、親爲の進む道にオオカミをつないでおいて鳴き声を聞かせたのであったという。この話は軍書にかかれている話で、知将といわれた甲斐宗運の智恵の深さをほめるためのつくり話のようである。
案外これは、親爲と宗運が二人で話し合って仕組んだ芝居であったかもしれない。親爲は、宗運が親子げんかをしたとき仲裁したという話も残っているほどで宗運とは仲がよかった。城親賢(チカマサ)にいちおう義理を立てしながら、宗運とは戦わないで済ませたものだったのかもしれない。
合志親爲(天正年間に一時期、親賢とも名乗ったことがあったらしい)は、合志城の城主で、赤星親家(チカイエ)の弟だったともいわれている。
天正十九(1550)年、菊池義武(ヨシタケ)が隈本城で大友義鎮(ヨシシゲ、宗麟)に対して戦いを挑んだときには、義武の味方をして五月十九日、木山や津森、隈庄などの大友派を攻めた。また、豊後から大友から大友軍が進入してくると、六月二十六日から合志城で激しい戦いをして、七月十一日の戦いでは、大友家の武将の朽網(クサミ)、志賀、一万田(イチマタ)氏などを含めた数百人を討ち取っている。
このときの戦いは、菊池義武が隈本城を攻め落とされて大友軍の勝ちとなるのであるが、合志氏に対して、大友義鎮がどのような態度をとったかは不明であり、格別、反抗をとがめられたような形跡はない。      (つづく)

【木山城】~弱小豪族の悲哀 次々戦火あびる~

【きょうの日乃出 5:19頃 快晴】
日之出6
【木山城】~弱小豪族の悲哀 次々戦火あびる~ を記したいと思います。

現在の益城町木山には、鎌倉時代のころから、木山氏と名乗る豪族がいた。
木山氏の名が合戦に関連して最初に出てくるのは南北朝の戦乱に南朝方の菊池氏と協力して戦った時で、興国四(1343)年、北朝方の少弐頼尚(ショウニヨリヒサ)は、阿蘇大宮司惟時(コレトキ)に、木山氏を攻めさせている。このころ、同じく現在は益城町の津森、上陣(カミジン)、下陣(シモジン)を本拠としていた光永氏は北朝に属していたようで、津森(ツモリ)城、木山城と近接した両城をめぐって激しい戦いが繰り返されたことであったろう。
木山氏は、室町時代になったころは、それほで強力な勢力は持っていなかったようで、室町時代初期の菊池、大友両氏の争いにはあまり名を現さない。そして木山の地には、ほかの有力な人が領地を持っていた。
木山一族の勢力が強くなかったのは、隣接の光永氏や、現在の熊本市南部に託麻氏などの豊後の大友氏や、阿蘇氏のなかでも大友氏との関係を深く結んでいた氏族が勢力であったため、圧迫されていたからであったろう。
天文三(1534)年正月、そのころ隈本城にいた菊池義宗(豊後の大友の義鑑の弟)は、豊後の大友本家に対抗して挙兵した。義宗(ヨシムネ)の挙兵と同時に、大内氏を後ろ盾(ダテ)した筑後の諸領主たちも反大友の兵を挙げて戦ったが、隈本城の菊池義宗には、城主の鹿子木親員(チカカズ、寂心)があまり協力的でなかったので、隈本城を守ることができなかった義宗は逃れて、相良長唯(ナガタダ)を頼った。
三月十八日には、長唯、義宗連合軍は、川尻で緑川をはさんで大友勢と戦ったが敗れ、隈本城を取り戻すことができなかった義宗は、隈庄城に逃れて、大友勢と対抗した。急迫する大友勢は、義宗方に属する諸城につぎつぎに攻撃を加えた。
木山、光永両氏は義宗(菊池)についていた。大友勢は木山城に攻め寄せ、激戦の後、四月二十八日、木山城は攻め落とされた。
この時の大友勢の肥後進攻は、この木山城を攻め落としたことを最後に終わっている。木山城は隈庄城の防衛上重要な戦略拠点であったのであろう。木山城の攻防は重要な戦いであった。
この時の木山城主や、木山氏の家督者がだれであったかはわかっていない。
天文十九(1550)年二月十日、豊後の府内(大分市)の大友館で、大友義鑑(ヨシアキ)が家臣に殺されるという事件が起きたのを機に義宗(そのころ義武と改名)は、再び隈本城に入って、田島重賢(シゲタカ)や、鹿子木鎮有とともに兵を挙げ大伴氏を討とうとした。義武は隈本城から兵を出し、閏(ウルウ)五月、木山、津森、隈庄城を攻めた。
天文十二(1543)年に、大友義鑑自身が肥後守護となるなど菊池義武の力が弱まると光永、木山氏らも大友方に城を奪われていたのであった。閏五月十四日から十九日までの戦いで、木山城は、いったん、義武方によって占拠されたが、大友勢は木山城奪回を試み、激しい攻防戦が展開された。大友氏の史料には、この戦いで討ち死にした人々の名が記録されている。
その後も、永禄五(1562)年四月には、光永一族と阿蘇惟豊(コレトヨ)の子の阿蘇惟将(コレマサ)方の御船城主甲斐親直(チカナオ、宗運)の争いに巻き込まれ、戦火をあびる。城跡は、現在、古城苑と呼ぶベトナム難民居住所。

産交バス:木山(経由)行き、寺迫下車五分

【坂梨高城】(阿蘇郡一宮町)

【我が家の近くに咲く桔梗という花】
桔梗4
【坂梨高城】(阿蘇郡一宮町)を記したいと思います。

坂梨(阿蘇郡一の宮町)を領していた坂梨氏は、古くから阿蘇大宮司家の重臣として勢威(セイイ)を保っていたが、天正年間(1573~1592)の家督は坂梨紹元(アキモト)であった。
天正八(1580)年の隈庄城合戦のときには、攻める大宮司方の將の甲斐宗運と、守っている島津方の甲斐守昌(モリマサ)は義父子の関係にあった。宗運がなかなか城を落とすことができなかったので、大宮司惟将(コレマサ)は、坂梨紹元を軍目付(イクサメツケ)として派遣している。これからみても紹元(アキモト)は大宮司家中でも実力者であったことがわかる。また現在、甲斐姓の中には、もとは坂梨姓であったと伝えられている人もあり、天正のころの阿蘇家重臣の中の甲斐宗運などと並んで名前の出ている甲斐紹員(アキカズ)は、名から考えてあるいは紹元の子供であったかと思われる。
天正十四(1586)年、島津氏が高森城を攻め落として豊後へうち入ったときには、紹元(アキモト)は島津氏に協調したようで、島津氏との戦いはなかったようである。
天正十五(1587)年の春、豊臣秀吉の軍勢が豊後に出陣してきて、島津勢を追い返したとき、敗退する島津方と追撃してきた大友勢との戦いが坂梨で行われた。
伊集院肥前守(イジュウインヒゼンノカミ)、三河守(ミカワノカミ)ら島津勢と犬童(インドウ)美作守休矣(キュウイ?頼安)ら島津勢は、肥後の方へ戻ろうとしていたが、敵軍に包囲され動けなくなった。しかし、同じく肥後を通って鹿児島へ帰ろうとやってきた島津方の町田出羽守久倍(ヒサマス)、新納(ニイロ)武蔵守忠元らが通りかかって敵を追い散らしたので、休矣らは危難(キナン)を逃れることができ、一緒に北里に向かった。三月二十日であった。
相良、島津勢は北里大蔵大輔の案内で、坂梨から阿蘇路をたどろうとしたが、このころ坂梨では、高城、唐木城(北坂梨)の坂梨左近紹元の城に桂神祇正、大野治部大輔、椛山太郎三郎ら島津の將たちがいたので、岡城(大分県竹田市)の城主で大友方の志賀親次(チカツグ)が三千の大軍で攻めたてていた。もう三日間も激戦が続いたが、坂梨、島津連合軍はよく城を守っていた。相良、島津の兵が北里から坂梨へ移動するのをみた豊後勢はしきりに追撃戰を繰り返したが、犬童休矣らの奮戦でこれを撃破して、二十六日には坂梨を攻めていた志賀勢も追い散らし、坂梨にこもっていた相良勢も一緒になって二重峠を越えて引き揚げて行った。
この坂梨から滝室坂(タキムロザカ)一帯で行われた激戦で犬童又十郎が戦死、また坂梨紹元の重臣たちのも戦死者がでた。紹元のものと伝えられる墓は坂梨家菩提寺の円通寺(阿蘇郡一の宮町坂梨)の墓城の残っている。
坂梨高城:阿蘇郡一宮町

【河内浦(カワチウラ)城】

【きょうの日乃出 5:18頃 直ぐ曇天に】
日之出2
【河内浦(カワチウラ)城】を記したいと存じます。

河内浦(カワチウラ、現在河浦町)は、本渡とともに天草氏が本拠のひとつとしていた土地で、河浦町には古城の遺構がいくつかあるが、天草氏家督の城館がどこにあったかは不明である。河内浦城という城名を伝えている城跡はないが、下田城(河浦町河浦)か、現在、崇円寺の寺城となっている地点に天草氏城館があったのではなかろうか。
天草氏は志岐氏と並んで古くからの土豪(ドゴウ)で、その士族といわれる大矢野、宮地、栖本、上津浦氏らとともに栄えて南北朝時代を迎えたが、河内浦在住の同族の河内浦種国(タネクニ)が本家に対し挑戦し、本家の領有していた土地の支配権を握り、天草氏を称した。戦国時代に相良、島津の勢力が天草に伸びたときの家督天草鎭尚(シゲヒサ)はこの河内浦種国の子孫であると考えられる。ただし、天草氏については系図がないので、人物については不明な点が多く、この鎭尚の他に河内浦には家督として鎭種という人の名が残っていて、この二人は同一人の異称なのか、別人なのか、別人なら河内浦には鎭種がいて、鎭尚は本渡にいたのか、いっさい不明である。島津の史料にでてくる天草家督は鎭尚(シゲヒサ)である。永禄十三(1570)年にアルメイダによって洗礼を受けてドン・ミゲルと教名を称した天草氏家督が、鎭尚かどうかは不明である。ここではミゲルと書くしかない。
キリスト教が初めて日本に入ってきたのは戦国時代の天文十八(1549)年であったが、昔から仏教を信じる人々の反感は強く、両教徒の間で激しい争いが起きた。河内浦の天草氏家督はキリスト教を信じ、永禄六(1563)年ごろから長崎にいた外人宣教師トルレスに河内浦で布教してくれるよう依頼していた。
大名たちがキリスト教布教を自領ですすめたのは、外人宣教師を介して鉄砲を入手したり、貿易によって利を得ることを目的としたものであった。天草氏にもその目的はあったのであろうが、この人の場合、信仰心が非常に厚かった。熱心な要請にこたえてトルレスは永禄十二(1569)年、志岐にいたアルメイダを河内浦に派遣した。アルメイダは河内浦の信福寺に滞在して布教を始めた。
ところで、この寺の住職は天草氏の弟であり、またもうひとりの弟もキリスト教を好まなかった。弟たちはアルメイダの布教を妨害し、教徒を迫害した。困った天草氏は、肥後の守護であり、またキリシタン大名であった大友宗麟(義鎭)に助けを求めた。しかし上津浦、栖本、大矢野など他の天草の領主たちは、天草氏を滅ぼす好機とばかり弟たちに肩入れした。このころ大友家臣の木山宗心は宗麟あての手紙の中で、天草領主たちは必ずしも大友守護家に忠実でないので困ると訴えているが、守護の威令もあまり天草氏の助けにならず、アルメイダも身の危険を感じて一時河内浦を離れたほどであった。
しかし、天草氏は弟たちの反対にもめげず、永禄十三(1570)年には受洗してドン・ミゲルと名乗った。また夫人も同時に受洗した。怒った弟たちは、ある日、城館に攻め寄せた。不意をつかれたミゲルは防戦のいとまもなく、身ひとつで本戸城へ逃れた。夫人もミゲルのあとを追って本戸へ向かったが、途中、追っ手の兵たちに追いつかれてしまった。とっさの機転で、夫人はちょうど農作業中の農婦たちに頼み、農婦に変装していったんは追っ手をやりすごしたが、引き返してきた兵たちは、服装は変えてもひときわ容色のきわだっ夫人に気づき、ついに夫人は斬り殺されてしまった。
本戸城で戦備を整えたミゲルは、大友氏調達の兵を率いて河内浦を攻め、弟たちを久玉(クタマ)の城に追い込んだ。弟たちは島津氏の仲介で助命され、島津領に逃れ出た。元亀元(1570)年のことであった。この後、天草氏の中にはキリスト教を信じる人々が多くなり、歴代家督や夫人たちも洗礼を受けた。
悲劇的な死をとげたミゲル夫人をいったん里人たちは夫人の靈(レイ)をまつる祠(ホコラ)を建てた。土地の名をとって市古木明神と呼ばれ、また、おたつ堂、おたっちょさんとも呼ばれている。祠(ホコラ)は本渡市宮地嶽町市小古木にある。市古木明神縁起の伝承が事実とすれば、正夫人であったかどうかは別として、貴婦人の殉教者としては最初の人ということになる。
河内浦城:天草郡河浦町

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