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【相良一族 相良義陽(ヨシヒ)について】(完)

【けさの日乃出 5:57頃】
日之出a
【相良一族 相良義陽(ヨシヒ)について】 本日を持ちまして完了致します。次回は、「相良一族 相良忠房・長毎」でございます。

こうして頼房は菱刈での島津貴久(タカヒサ)との戦いに忙殺(ボウサツ)されていたが、一方では北九州において、大友宗麟、毛利輝元(テルモト)の激戦が続いており、両者から頼房に対して出兵の要請が行われている。頼房(義陽)は配下の部将を大友方援助のため派遣している。
また、この年、足利将軍義昭は頼房に経済的援助を要請し、頼房は料所(リョウショ)を進呈してこれに応えた。
翌元亀元(1570)年、頼房と島津義久は正式に起請文(キショウブン)を交わし、和儀を整えた。同時に渋谷一族とも和儀を成立させた島津氏は、元亀三(1572)年五月四日、飯野川畔の木崎原で伊東義祐(ヨシスケ)と合戦、伊東氏に決定的な打撃を与えた。
天正二(1574)年、九月二十八日、天草鎮尚(シゲヒサ)は来迎寺(ライコウジ?)を使僧(シソウ)として島津氏に友好を求めているが、この頃から志岐重経(シゲツネ?)など天草の諸氏が島津と交渉を持ち始める。
天正五(1577)年十二月には、伊東義祐は都於郡(トノコオリ)をも放棄、大友宗麟を頼って豊後え逃れた。頼房は普門寺を使僧として、十二月十六日、島津家へ伊東討伐(トウバツ)戦の勝利を祝賀した。翌年(1578)正月には、志岐、天草、栖本氏らは戦捷祝賀(センショウシュクガ)の使いを送っており、この時期には天草諸氏が島津の影響下にあったことがわかる。そして、天正六(1578)年十一月十二日、日向耳川に大友宗麟、島津義久が激突、宗麟は大敗した。
肥後北部では、龍造寺隆信(リュウゾウジタカノブ)が隈部親永(タカナガ)と結んで、肥後に進攻し始めている。
天正七(1579)年は、肥前では龍造寺隆信が有馬晴信(ハルノブ)と争い、筑前では秋月種実(タネザネ)、筑紫惟門(ツクシコレカド)らが岩屋城をめぐって大友方と戦い、筑後では小代、三池、辺原、和仁らが龍造寺と戦っている。隈本城の城親賢(ジョウチカマサ)は、宇土の名和顕孝(アキタカ)とともに島津氏と結び、島津氏は、宮原景種(カゲタネ)らに手兵をつけて隈本城に兵を送った。 
天正八(1580)年に至って、龍造寺隆信の肥後制圧は速度をはやめ、島津氏も対抗上、北上の速度をはやめている。すでに七年後半、(五月十三日等の異説あり)、新納忠元は芦北の宝河内(ホウノコウチ)城を攻め寄せ、城将東駿河守はいったん城を落ちたが、相良援軍が逆襲して奪回するなどの戦いが行われた。八年に入ると、宝河内、久木野の両城は落ち、島津氏は水俣城を狙う。
一方、隈本城の島津勢は鹿本、山鹿方面へ出兵、内空閑(ウチクガ)、隈部氏らと交戦し、龍造寺勢力の浸透を妨害している。また宇土半島にあった大友方の阿蘇惟将(コレマサ)支配下の土地を占拠、相良、阿蘇の両氏を次第に追いつめ始めた。この年、甲斐一族の内部でも、隈庄の甲斐守昌は、名和顕孝(アキタカ)を介して島津氏に通じ、甲斐宗運は娘婿の守昌を攻めている。三月から四月にかけて、城親賢(チカマサ)は、龍造寺方や島津方の国衆(クニシュウ)を結集し、宗運に戦いを挑んだ(白川旦過瀬の戦い)。
八年から九年に至って、相良義陽、甲斐宗運、城親賢を含めて肥後の国衆たちは龍造寺隆信に誓書を差し出し、臣従(シンジュウ)を誓っている。もちろん形式的なものに過ぎず、肥後国衆たちは大友、龍造寺、島津の三者に対して臣従を誓っている状態であり、敵対関係にある双方へ人質を出している状況もあった。
島津勢が本格的に水俣城に対する攻撃を開始したのは天正九(1581)年九月十九日であり、激しい攻防戦の後、二十七日、城将犬童(インドウ)美作頼安は降伏した。これは南籐蔓綿録(ナントウマンメンロク)の記述であるが、八月十八日からの攻撃で、二十日、落城という記録もある。城受け取りの薩将は比志島国真(ヒシジマクニザネ)であった。水俣支援のため佐敷(サシキ)に布陣していた頼房は、水俣落城をみると島津氏に降(クダ)った。
そして島津方は、息つく間もなく矢部の阿蘇惟将征討を行う。十二月、島津勢は堅志田、豊田、甲佐、御船へ攻撃を加えた。
頼房改め義陽は一隊をひきい沙婆神(サバガミ)峠を越えて豊野へ兵を進め、天正九(1581)年十二月二日、午前の戦いで甲佐城に宗運の娘婿(ムスメムコ)伊津野(イヅノ)正俊を討ったが、午後に入って御船城を出撃した宗運自身のひきいる奇襲隊の攻撃を受け、三十八歳の生涯を閉じた。響野原(ヒビキノハラ)の戦いと呼ばれている。
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【相良一族 相良義陽について】(九)

【けさ久し振りの我が家からの日乃出 6:02頃】
日之出2
【相良一族 相良義陽について】(九)を記したいと存じます。次回で完了です。

永禄十年(1567)十一月、島津氏は、菱刈氏に対して総攻撃を開始した。
島津貴久、忠平(義弘)自身出陣し、菱刈方の馬越、湯ノ尾、横川、大口の諸城を大軍で包囲した。頼房(ヨリフサ)は兵を出して馬越城(マゴシジョウ)救援をはかったが、十一月二十四日、落城した。菱刈重猛死後、五歳の嫡子鶴千代の後見者となった重猛弟の隆秋は大口城に全兵力を結集した。隆秋は二十六日、相良勢が島津勢に奇襲(キシュウ)をかけるのを機に大口城を打って出、さきに島津方にいったん明け渡した市山城奪回をはかった。貴久(タカヒサ)は市山城の死守を新納忠元(ニイロタダモト)に命じて防戦させた。戦いは年を越し、翌永禄十一(1568)年には相良、菱刈連合軍と島津勢の激戦が年末まで続く。五月には島津方は、頼房に山野(ヤマノ)を与えて相良と菱刈の離反をはかったが、頼房は菱刈援助をやめなかった。八月には伊東義祐(ヨシスケ)は菱刈、相良と連動して島津忠平(義弘)居城飯野に寄せている。この年の戦いは、十二月十三日、鹿児島で島津一族の実権を握っていた島津忠良が病死し、貴久が前線を離脱しなければならない状況となり、島津方は一時気を挫(クジ)かれたが、頼房(ヨリフサ)は隆秋(タカアキ)を説いていったん島津方と和儀を結んだ。忠良の死という変事(ヘンジ)を機とした頼房の提案で時宜(ジギ)を得た策であったが、隆秋は必ずしも平和を望まず、大口城に近い、島津義久の守る羽月城に兵を出して攻めた。
こうした菱刈隆秋の態度に、島津方は永禄十二(1569)年五月六日から大口城総攻撃を開始し、八月十八日には大口城に直接攻めかかり、頼房、隆秋は必死の防戦に努め二十日余り支えたが、九月二日、島津氏に講和を求めた。九月十日、頼房と隆秋は菱刈鶴千代(重広)に曽木、本城を所領として安堵させるという約束を島津方ととりつけ、隆秋(菱刈)は相良勢とともに大口城を出て、球磨へ向かった。永禄十一(1568)年五月、渋谷一族は東郷重綱(シゲツナ)、祇答院良重(ケドウインヨシシゲ)が代表として頼房と反島津の盟約を結び島津氏と戦ってきたが、相良、菱刈が手をひいては単独では戦えず、島津方に帰服した。
(つづく)

【相良一族 相良義陽について】(八)

【散歩時に撮した百日紅】
百日紅1
【相良一族 相良義陽について】(八)を記したいと存じます。

この(1564)年四月八日、名和家督をついで二年の名和行憲が死去した。正嫡(ショウチャク)のない名和の家督を争って豊福の名和行直(ユキナオ)が、五月八日内河氏の守る宇土へ討ち入り、翌日、内河勢は堅志田へ逃れ出た。行直が家督を継いだ。
この年二月九日、足利将軍義輝は、相良頼房に義の一字を贈り、修理大夫(シュウリダユウ)に任じた(相良家文書)。頼房は義頼(ヨリヨリ)と改名しているが、この修理大夫任官に故障を申し入れたのが肥後守護大友宗麟(ソウリン)(義鎮)であった。官途所望(カントショモウ)は当時九州探題を称していた宗麟の取次によるのが筋であり、将軍家との直接の交渉は非として問責(モンセキ)したのであった。将軍家取成(トリナ)しで事は収まったが、相良氏の毛利との結びつきを警戒し、神経をとがらせていた大友宗麟のいらだちがよくわかる出来事であった。
永禄八(1565)年、名和氏の内乱を見て頼房は、豊福奪回の兵を出し六月十三日、攻め落とした。隈庄の方は、六月六日落城、甲斐織部佐(オリベノスケ)が義父の親直に通じて甲斐下野守を追い落としたのであった。下野守(シモツケノカミ)は名和行直を頼って宇土へ逃れた。
永禄八年の他の主要事は、天草における上津浦(コウツウラ)、大矢野氏と栖本(スモト)氏の争いであった。栖本氏には志岐鎮経(シゲツネ、麟泉)、有馬晴信(ハルノブ)、島津義虎が協力した。上津浦援助のため天草氏は頼房に援を乞うた。再び、天草諸島は戦乱の中に巻き込まれたが、島津義虎(ヨシトラ)は水俣へも出兵して、相良勢を牽制(ケンセイ)している。有馬晴信、志岐鎮経が栖本支援をやめ、十月三日に至って、甲斐宗運(ソウウン)を仲介者とした有馬晴信の要望を頼房がいれて、戦いは鎮まった。(つづく)

【相良一族 相良義陽について】(七)

【けさの出仲間神社の社】
社2
【相良一族 相良義陽について】(七)を記したいと存じます。

戦闘は翌永禄六(1563)年正月七日、相良頼房、伊東義祐(ヨシスケ)との間で和儀成立して終わった。この戦乱中に菱刈氏との関係も恢復(カイフク)されたようだ。
永禄五(1562)年三月十三日、名和行興(ユキオキ)が死去した。次期家督の行憲(ユキノリ)は七歳の幼児であった。豊福城にあった行興の弟行直(ユキナオ)と行興重臣の内河氏が後見役の座を争った。
また、津森(ツモリ)、木山で阿蘇惟前(コレサキ)方にたっていて、阿蘇惟豊(コレトヨ)とは対立関係にあった光永氏に対し、惟豊方の甲斐親直(チカナオ、宗運)が攻めかかり、四月一日からの戦いで、十三日には津森城が落ち、光永本家は合志親為(コウシチカタメ)を頼って落ち延び、光永家三男光永中務少輔(惟助?)は親直に降(クダ)った。この木森氏攻めに際しては、甲斐親直の三男が、相良頼房(ヨリフサ、義陽)のもとへ使者としてたち、光永攻めを認めるよう申し入れている。光永氏が相良氏の保護下にあった阿蘇惟前(コレサキ)の重臣であったことによる甲斐親直の遠慮からであったろう。天正年間(1573~1593)に入って、阿蘇惟豊方として活躍する光永氏はこの三男の系統に人々と考えられる。
頼房(義陽)は、宇土、御船の動きに対処するため高塚城(旧竜北、氷川)の防備を強化した。
永禄六(1563)年五月十六日、合志親為は頼房に使僧(シソウ)を送っている。光永氏の処遇問題について相良氏と打ち合わせを行ったものであろう。
明けて永禄七(1564)年、三月ころより隈庄の甲斐下野守(シモツケノカミ)と御船の甲斐宗運(親直)との間に対立が起き、八月十六日、宗運は隈庄に攻め寄せた。二十一日の戦いには惟豊勢、相良勢も攻城軍に加わって戦っている。(つづく)

【相良一族 相良義陽について】(六)

【きょう 5:34頃の田迎神社 薄暗くライトが】
田迎神社
【相良一族 相良義陽について】(六)を記したいと存じます。

この年は、九月二十三日、有馬、大村勢が志岐、上津浦(コウツウラ)勢とともに栖本(スモト)へ攻め寄せるという動きがあり、天草氏の依頼を受けた頼房(ヨリフサ)は十月六日、兵を送ってこの天草五氏間の争いに介入したが、結局、上津浦氏が前に失っていた棚底(タナソコ)領を栖本氏から取り返すことで事変は落着した。
明けて永禄四(1561)年、相良家自体は極めて安穏な年を送った。薩摩では、五月、肝付兼続(キモツキカネツグ)が島津に討ち入り、伊東義祐(ヨシスケ)が飫肥(オビ)に進入する動きがあり、島津氏は日向方面での勢いに忙殺(ボウサツ)された。島津・伊東の和議は十二月二十一日に至って成立する。こうして日向方面に勢力を向けていた島津貴久(タカヒサ)は、菱刈重猛(シゲタケ)には栗野百二十町を割譲して和平を保っている。
この年は、名和行興(ユキオキ)も大きな動きは見せない。これは大友義鎮(ヨシシゲ、宗麟)が門司城をめぐって毛利氏と激戦を展開し、阿蘇惟豊、城親冬(チカフユ)、合志親為(コウシチカタメ)、隈部親永(チカナガ)、赤星親家(チカイエ)その他の肥後諸領主とともに名和行興も参戦していたからであると考えられる。   
上村頼吉(ヨリヨシ)をかくまって頼房(ヨリフサ、義陽)と対立していた北原兼守(カネモリ)は、すでに永禄三(1560)年に死去している。兼守が死去すると、縁者である伊東義祐(ヨシスケ)は北原領の保全を名目に真幸(マサキ?)に兵を入れ、真幸を占有した。北原氏では兼守と兼親が仲違(ナカタガ)いをしていて、兼親はかねて難を避けて、頼房の許(モト)に身を寄せていたのであったが、伊東義祐の真幸占拠をみると討伐(トウバツ)の兵を起こした。この伊東氏の行動に対しては島津方も黙視してはいない。
菱刈重猛(シゲタケ)も反伊東の兵を動かした。これに対し伊東義祐は肝付兼続と組んで対抗した。頼房は永禄五(1562)年正月二十一日、北原兼親(カネチカ)援助を名目に真幸に出兵した。東長兄(ヒガシナガトシ)、深見右馬頭(ウマノカミ)ら主力をさし向けている。島津方として参戦しているのは伊集院忠朗(イジュウインタダアキ)である。(つづく)

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