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【筒が嶽城】~小代氏が築城 菊池氏最期の地~

【彼岸花(曼珠沙華)】
彼岸花
【筒が嶽城】~小代氏が築城 菊池氏最期の地~

荒尾の小代山(ショウダイサン)の最高峰である筒が嶽(ツツガタケ)に城を築いたのは、小代氏であったと言われている。
小代一族は、鎌倉時代、玉名の野原庄(ノバラショウ)の地頭として移住してきた。
関東武蔵地方に勢力を持っていた児玉七党の一派であったという。
小代氏菩提寺の荒尾の浄業寺(ジョウゴウジ)の建物には、小代氏の家紋唐団扇(トウウチワ)の紋章が見られる。
団扇紋は古来、児玉党が使用していた。
小代氏は南北朝期には、大体において、北朝武家方に属して、南朝方の菊池一族と対立した。
室町時代になると、肥後は、菊池武朝(タケトモ)が守護に任ぜられたが、小代氏は足利幕府から直接に所領を認められ、菊池氏の支配下には入らなかった。
肥後に強い影響力を持っていた大友氏とも結ばず独自の立場を堅持していた。
永正三(1506)年の三月、菊池政隆(マサタカ)は大友討伐(トウバツ)のため豊後に出兵したが、失敗し、逆に大友・阿蘇連合軍に菊池から追い出され、植木正院村(ショウインムラ)の城に立てこもったが、十月にはここも陥落(カンラク)、筒が嶽に立てこもった。
阿蘇惟長(コレナガ)に奪われた肥後守護職を取り戻そうとした政隆を討(ウ)つため、永正五(1508)年七月十七日には、大友家臣の朽網親滿(クタミ チカミツ)が攻め寄せ、攻防戦が始まった。
阿蘇氏の兵も攻城軍に参加し激戦となったが、十月には落城、政隆は島原に逃れた。
翌年夏、政隆は再び肥後に帰り、城政元、隈部鎭治(シズハル?)、玉屋貞親らの協力を得て、菊池へ攻め込もうとしたが、玉名郡で朽網親滿(クタミチカミツ)勢と合戦になり、敗れて、合志久米原の安国寺において自害して果てた。
十九歳であったという。
せっかく政隆を殺して、守護の座についた阿蘇惟長(アソコレナガ、菊池武経と名乗っていた)であったが、やがて大友氏が自分で守護となろうとしているのは、はっきりしていた。
惟長は守護の位(クライ)を捨てて逃れた。
空位(クウイ)となった守護に、大友一族の義国(大友宗麟の叔父)が就任しようとした。菊池一族では菊池基興(モトオキ)や、託麻武包(タケカネ)が反抗の兵を挙げた。
大友義国は、菊池重治と改名し、隈本城の鹿子木親員(カノコギチカカズ)に迎え入れを頼んだ。永正十六(1519)年、基興は、南親興(チカオキ?)とともに、隈本城に攻め寄せ、重治迎え入れ妨害しようとしたが、本郷長賢や鹿子木親員ら大友方はよく防戦し、基興勢を撃退した。
退却した基興は、反撃の拠点として筒が嶽にこもった。
筒が嶽攻防戦は、三月から七月まで続き基興は戦死した。
翌年二月十九日、重治(菊池)は、執念深く菊池家再興を望んで兵を動かし続ける南親興討伐のため自ら肥後に入った。
筑後の五条鑑量、上妻鎭房などが、南親興を、六月ごろまでに攻め破った。この間、重治は隈本城に入って守護となった。託麻武包(タケカネ)も、菊池家名復興を志した人であった。武包は、菊池家臣団に推(オ)され、守護と名乗ったと言われている。
武包(タケカネ)もまた、筒が嶽に立てこもって戦ったが、大永三(1523)年正月、大友方の甲斐親宣(チカノブ、甲斐宗運の父)に攻め破られ、島津へ去り、再起の志を果たさないままに天文元(1532)年二月十三日、病死したと言われている。
戦国菊池氏の最期だった。残念なことに、一連の筒が嶽の戰いに際しての小代氏の行動記録が全くない。

筒が嶽城:JR荒尾駅より府本行きバス府本下車、山頂へ徒歩二時間
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【城村(ジョウムラ)城】~天下を敵に回す 全領民も立籠る~

【道端で撮した彼岸花(曼珠沙華) きょうは、彼岸の入り】
彼岸花2
【城村(ジョウムラ)城】~天下を敵に回す 全領民も立籠る~

豊臣秀吉は天正十五(1587)年までに、東北、九州を除いて、日本全国をほぼ完全に掌握すると、多年の宿願としてきた外国遠征を実行に移す準備として、九州の制圧を計画した。ちょうどその時、豊後の大友宗麟、義統(ヨシムネ)父子が、秀吉に援護の出兵をしてくれるよう依頼してきた。
宗麟らは、島津義久の軍勢に追い詰められ、まさに滅亡寸前の状態のあった。
好機到来と秀吉は、配下の諸将たちに出陣を命じ、九州に渡り、島津勢を鹿児島に押し戻し、降参させてしまった。
肥後の国侍(クニザムライ)たちは、島津に従って豊後へ出陣していたが、撤退する島津勢とともに退却し、肥後の在所在所で島津勢から離脱、秀吉方に降参した。
天正十六(1588)年、島津征討(セイトウ)を終えた秀吉は、九州の国々に新しく配下の将たちを国主として任命した。
肥後隈本城には佐々成政が任命された。
成政に秀吉が期待していたのは、大陸出兵を目前にして、重要な食糧基地として、また天草など水軍の基地として、肥後を活用できるようにしておくことであった。
東北地方の平定という仕事を残していた秀吉は、在所在所で秀吉に帰順(キジュン)してきた肥後の国侍たちに、それぞれの従来からの所領はそのまま治めていくようにといい、国侍たちの人心安定を心掛けている。
旧領安堵(キュウリョウアンド、領地所有を公認すること)といっても、本領のみの安堵ということであったが、本領の解釈をめぐって、成政と国侍たちの意見が食い違った。
成政にしてみれば、自分の家臣団を養うに足る領地が必要であり、さらに豊臣家への税金を出すに足る領地も必要であった。
肥後全体の食糧生産高の測定が急務であった。
そのため耕作面積の測定(検地といった)を行おうとしたが、国侍たちは秀吉の所領安堵状を盾(タテ)にとって、検地反対の争いを起こしたのだった。
米どころの菊池、鹿本を含む三千町を領する国侍たちのなかの最有力者であった隈部親永(チカナガ)をまず説(ト)き伏せればよい、と考えた成政は、天正十六(1588)年正月、隈本城で新年祝賀の宴会を開き、そこで親永を説得しようとした。
親永は、もし承諾しなければ殺してしまうという情報を入手し、登城しなかった。
病気で欠席しても謀反(ムホン)と決めつけられて討伐をうける習いの戦国の世であった。成政はすぐに兵を出した。
成政にしてみれば、親永を討ち滅ぼしさえすればよかったのである。
しかし、城村城によった親永の抵抗はがん強であった。
領民全部が食糧、武器を持って立てこもった。
秀吉は中国、九州の諸大名を動員して肥後へ出兵させた。
大軍の包囲のなかで親永は、黒田、立花、小早川、浅野ら高名な戦国武将たちの猛攻を跳(ハ)ね返して城村の城を守り通した。根負(コンマ)けした秀吉は、和平を申し入れ、柳川城で開いた交渉会談中に、親永を斬殺(ザンサツ)した。

城村城跡:産交バス山鹿南関線、城下車徒歩十五分

【霜野城】~命かけた武士の面目島津勢の若武者木庭帯刀~

【雲に覆われた飯田山 7:00頃】
飯田山2
【霜野城】~命かけた武士の面目島津勢の若武者木庭帯刀(タテワキ)~

植木、鹿央の地域は、今日でも交通上重要な地点であるが、戦国時代には、肥後へ進入してきた他国勢の通過が激しく、そのたびに、この一帯の在地勢力であった内空閑(ウチノコガ)一族と激しい戦いが繰り返された。
現在、内空閑城跡として公園となっている城は、内村要害と呼ばれて、大友氏が肥後進攻を行った時の激戦地である。
この城とともに、内空閑氏が本城としていたのに霜野(シモノ)城がある。
霜野城に、天正七、八、九の三年間にわたって、島津勢が押し寄せている。
肥後を通って、大分の大友氏と討とうとした島津氏は、城親賢(ジョウチカマサ)と手を結び、城氏居城の隈本城(現在の県立第一高校)に兵を入れ、ここを根拠に、内空閑氏に攻めかかったのであった。
この当時、龍造寺氏と結んでいた内空閑氏は親類の、山鹿、菊鹿在の隈部一族と協力して、島津勢を迎え襲った。
天正九(1581)年八月、島津勢は、三千余の兵で、霜野城に攻め寄せた。
守るは、内空閑鎮房(シゲフサ)、鎮照(シゲテル)を大将とし、隈部氏からの援軍も加えた二千余人であった。
城の周辺の戦いでは、内空閑勢の勇戦で、島津勢も手を焼いたが、一息に本城を攻め落としてしまおうと、九月十五日夜から、総攻撃を開始した。戦いは翌日も続いた。
内空閑方の將牧野弾正は、二百の兵を率いて、島津の味方をしている肥後武士、木庭宗運の兵を攻め、宗運を討ち取った。
先導の木庭が敗れたため、島津勢はいったん引き下がった。宗運の子、十八歳の若武者木庭帯刀(コバタテワキ)は、島津勢とともに、退却したが、目前でみすみす父を討たれた悔(クヤ)しさと、味方の退却が、木庭勢の責任であると考えて、名誉回復を図ろうと、手勢を連れて戦場に戻り、牧野弾正に一騎打ちの勝負を申し込んだ。
弾正は、愛用のやりで、帯刀のなぎなたと渡り合ったが、討たれてしまった。
これを見た弾正の子牧野丹波守が、父の敵と呼び掛けて、打ちかかると、帯刀は、いっさんに島津陣へ馬を走らせた。
ひきょうな、戻れ、と牧野勢は追いかけ始めたが、帯刀は馬、牧野は徒歩なので追いつけない。
とするうち、流れ矢が帯刀の馬に当たり、帯刀が落馬した。
それっと、走ってきて、取り囲んだ牧野勢に、帯刀は、「後ろを見せたので、ひきょうと思われたろうが、このたびの戦では、島津に案内を頼まれて出陣したのに、父が討たれたことで、敗戦となり、島津に面目が立たない。
その責任を償い、武家の面目を保つため、弾正殿を討ったが、島津の人で見ていた人がいないので、報告するため、やむなく後ろを見せたが、こうなっては仕方がない。
私が討ち死にしたら、弾正殿を討ったこと必ず島津方に知らせてくれ」と頼むと、なぎなたを奪って戦った後、戦死した。
人々皆、若武者の死を悼んだという。
弾正墓が、現在、霜野を流れる小川のほとりにまつられている。

霜野城:山鹿鈴麦線仁王堂下車十五分

【太田黒城】~佐々の奸計(カンケイ)に滅ぶ興亡繰り返した大津山一族~

【阿蘇の山々に乗っかかる雲 11:06頃】
阿蘇の山々1
【太田黒城】~佐々の奸計(カンケイ)に滅ぶ興亡繰り返した大津山一族~

太田黒城は神尾(カミノオ)城とも呼ばれていて、大津山城を本拠として活躍した大津山氏の城の一つであった。
大津山氏が戦国時代史に最初に名を現しているのは、大永三(1523)年六月、そのころ北九州で大友義鑑(ヨシアキ)と争っていた中国山口の大内氏の代官、陶美作守(ミマサカノカミ)に味方して、三池氏ら筑後の諸将とともに大友方の高良山(コウラサン、久留米市)を攻め落とした時である。この戦いで赤池城(福岡県)を攻めた際、大津山刑部少輔は敵将城後親興と組み討ちして勝ったという武勇伝(ブユウデン)が残っている。
大内氏の力は、この年九月、土地の有力者秋月種成(タネナリ?)が大友方に寝返ったので、急に弱くなり、陶美作守も山口へ逃げ帰ってしまった。
大友方に攻めたてられて、大津山、小代氏は、三池氏の今山城(イマヤマジョウ、大牟田市)にこもって戦ったが敗れ、この時、大津山の総大将は討ち死にしたといわれている。
このころ、肥後は、大友義鑑の弟義国(ヨシクニ)が守護として隈本城にいて、この戦いには義国は大友方として戦ったのだが、やがて、豊後の大友本家と仲が悪くなり、天文十九(1550)年、大分で大友義鑑が家臣に殺されるという事件が起きたのを好機として隈本城に挙兵した。
大津山資冬(オオツヤマスケフヨ)は、義国に味方して兵を挙げた。この戦いは、義鑑の子義鎮(ヨシシゲ、宗麟)が、二万の大軍で肥後に進入してきたため、義国(当時義武)の敗北となった。
大津山資冬は、敗軍の将となり、義鎮の代官で南関城督として赴任してきた小原鑑元(オバラアキモト)に本城の大津山城を明け渡さなければならなかった。
やがて弘治二(1556)年五月、小原鑑元は大友家臣団の内紛に巻き込まれ、大友勢に城を囲まれた。
この時、大津山資冬は、勝手知った城の裏手から攻め込んで手柄をたて、再び大津山城主に復帰したといわれる。
天正七(1579)年、肥前(佐賀)の龍造寺隆信(リュウゾウジタカノブ)が肥後に進入し、三月、小代、三池の連合軍を、五月には和仁親続(チカツグ)を和仁の里城に破った。
九月になって、大友方は、山下城(福岡県八女郡立花町)の蒲池鑑広(カマチアキヒロ)を中心に、広い地域で反撃に出た。
大津山資冬もこの作戦に和仁親続とともに参加して奮戦したが、戦にあきた大友の主力が豊後に引き退くという事件が起きた。
この時期になると大友家臣団の士気はひどく衰えていたのであった。
がんばっていた蒲池鑑広も降伏し、大友資冬は、本国肥後へ退却し、太田黒城にたてこもった。
本城の大津山に頼らなかったのは、太田黒城の方が、友軍の辺春(ヘバル)、和仁(ワニ)の領地と連絡を取りやすかったであろう。
太田黒城を、楠田伊豆守(クスダイズノカミ)などの奮戦によって、五日間の防戦で、守り抜いた。いちおうは龍造寺勢を撃退したのであったが、結局は、降伏し、天正七(1579)年冬には、きのうまでの友軍であった辺春親行を吹春城(立花町)に攻めた。きのうの友は、きょうの敵という戦国の世に例の多い事態であった。
天正十五(1587)年、秀吉入国までを生き抜いた大津山氏であったが、秀吉任命の国主佐々成政は、大津山家稜(イエカド)を居城から追い出すなどの乱暴な所業があり、怒った家稜は、同年冬の成政に対する肥後を挙げての一揆に参加、太田黒城にこもって戦ったが、佐々方の計略(ケイリャク)にかかって、三加和(ミカワ)町吉地の寺院で殺された。

太田黒城:国鉄バス山鹿線福祉センタ-前下車徒歩五分

【大津山城】~筑後三池領となる 姫のわがままから紛争~

【どんよりした天気の飯田山附近の空模様 6:17頃】
飯田山1
【大津山城】~筑後三池領となる 姫のわがままから紛争~

永禄(1558)のころからと思われる。
南関の大津山城(オオツヤマジョウ)にいた大津山資秋(スケアキ)の娘、おえん姫が、隣国筑後三池今山城(大牟田市)の城主三池鎮照(ミイケシゲテル)と結婚することになった。
戦国時代、領主の娘が嫁に行く時には、化粧料といって、父親からいくらかの土地をもらうことが多かった。
おえん姫は、初めおえん姫に与えられるようになっていた土地が、嫁入り先の三池から遠く離れた所であったので、三池に近い土地でなければいやだとだだをこねた。
気性の激しい娘であったので、嫁に行かないなどと言い出されては大変と、国境の四つの村にある土地十二町(一町は約99.18ア-ル)を与えた。娘は機嫌を直して嫁入った。
資秋も姫もなくなった後は、資秋(スケアキ)の孫、家稜(イエカド)が領主となった時、家稜は譲った土地を返してくれと、三池氏に交渉した。
話がまとまって、土地を返すことに領主同士の間では約束ができたが、実際にはまだ返されない間に、家稜(イエカド)は肥後の国主、佐々成政と争って殺されてしまった。
そのころ、肥後は成政の税金取り立てが厳しくて、領民は困っていた。
家稜が成政と争ったのも、成政の政治の在り方に反対であったためであった。
それで、今は筑後の領民となっていた化粧田(ケショウデン)の住民たちは、肥後の領民になるのはいやがった。
成政は失政がもとで豊臣秀吉に切腹を命じられた。
後始末にやって来た秀吉の部将安国寺恵瓊(アンコクジエケイ)に、南関の住民たちが、今は筑後のものとなっている村々を肥後に返すようにしてくれと相談した。
肥後の事情にうとい他国者の恵瓊(エケイ)は処置に困ったが、もともと肥後の土地であったならば、村のお寺にある棟札(ムナフダ)を持って来い、と命じた。
棟札を見れば、その寺がどこの国に属していたかが書いてあるのである。
肥後領民になるのに反対の道甫(ドウホ)という男は、これを聞くと大急ぎで来光寺(ライコウジ)という寺へ行き、棟札(ムナフダ)に、肥後国玉名郡臼間庄(ウスマノショウ)来光寺と書いてある古い文字を削り取ると、その新しい木はだに、元と同じように書いておいた。
まさか、こんな頭のよいトリップが行われたとは知らない南関の領民が、来光寺の棟札を持って来て恵瓊(安国寺)の前に差し出した。
それをみた恵瓊は、削り後も新しく、文字も真新しいのを見ると、これはきっと古くは筑後国と書いてあったのを、土地欲しさに肥後国と書き直したものに違いないと考え、自分をだまそうとするとは不届きな、と、南関領民をしかりつけ、筑後三池領と定めた。
といわれる。もしも、おえん姫がわがままを言わなかったら、現在の熊本県は少しばかり広いものになったであろう。
大津山城跡は南関の国道そばにあり、資秋(スケアキ)建立の大津山神社の上の山頂、本丸跡には城碑があり、展望のすばらしい所である。大津山は古くは大水山(オオミズヤマ?)とも書き、つつら嶽(ツツラガタケ、アマツラガタケ)ともいう。

大津山城:国鉄バス、山鹿線南関中央下車、徒歩十分

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