【島津軍団、肥後、日向に進攻】(四)

【島津軍団、肥後、日向に進攻】(四)をきょうも記したいと存じます。

            【清楚で一輪が大きな花】
花1

「一、宗運の島津折衝と死」 のつづきです。
工事中、阿蘇方の兵が偵察に現れたが、工事を妨害するようなことはしなかった。宗運は城兵にいろいろ贈り物をして、冬の寒さに耐えている島津の将兵を見舞ったというが、この事は島津方の史料には見えていない。
明けて天正十二(1584)年二月、宗運は親教(チカノリ)と連れ立って八代の島津方へ挨拶に出むいている。正月祝いに行ったのであったろうが、島津の将たちは、かけひきの一環としか思わなかったのではなかったろうか。
三月に入って、島津氏は龍造寺攻めを開始を決定した。
佐敷(熊本県葦北郡芦北町)に集結した島津軍は島原へ渡った。かって、龍造寺隆信に出していた人質の息子と娘を殺された肥後の国衆で島津の客将となっていた赤星統家(ムネイエ)も従軍していた。
島津家久と有馬鎮貴(晴信)のひきいる三千の連合軍は、龍造寺方の島原城に攻めかかった。これを聞いた隆信は自ら大軍をひきいて島原城援助に出陣した。
二十四日、隆信は島津に着陣したが、迎撃した島津軍との戦いは、龍造寺方の戦術上の過誤のため、島津軍の大勝となり、龍造寺方は三千以上の損害を出し、隆信自身が戦死するという大敗北となった。
天正六(1578)年の大友宗麟を再起不能にさせてしまった日向耳川(ミミカワ)合戦とともに、この沖田畷(ナワテ)合戦は戦国島津氏の戦史を飾る大勝利であった。
この天正十二(1584)年三月の島津合戦以降、隆信の後を継いだ政家(マサイエ)との交渉や、有馬氏のために肥前の鎮定(チンテイ)をはかったりして島津氏は暫らく肥後では動きを見せなかった。肥後の諸将の多くが島津陣営へ島原の勝戦を祝賀するために姿を見せたが、甲斐氏の人々が祝儀(シュウギ)を贈ったという記録は残っていない。
六月には、島津義久の方から、馬一匹と太刀一振りを宗運に送っている。島津方の意のままに動かないにしても、いちおう、宗運は島津家に対して臣下(シンカ)として認めさせているのであるから、島津氏としては仕末の終えない相手であったに違いない。
十一月になって、宗運と親教(チカノリ)が島津陣営の赴(オモム)こうとしたところ、今度は島津方が、それには及ばないと断っている。
覚兼(カクケン)の日記に御船と隈庄から「人数が打っ立って島津陣営に赴こうとしてしている」という話が伝わったので断った、という書き方がしてあり、おそらく宗運と親教は手兵をひきいて、何かがあれば一戰覚悟の様子と察したので、面倒なことでも起きてはと、島津方が断ったものであったろう。
島津方では、こうした交渉を宗運と持つ間にも、いつ益城への本格進攻を開始しょうかと幾度も将たちが相談している。
こうした月日が経過して、天正十三(1585)年七月三日になって、宗運は死去した。七十五歳前後の高齢であったと思われる。
宗運の死は、直ぐに島津方にまず風聞(フウブン)として伝わり、更に、阿蘇大宮司家から、死去の報が正式に島津陣営に届けられた。
宗運の墓は、御船町木倉の永寿寺(エイジュジ)にあり、また碑が御船城跡にある。この碑は、若宮八幡宮(御船町辺田見)にあったものを移したものという。
宗運は死に臨んで墓は無銘にせよといい残したと云われ、永寿寺墓塔は無銘である。位牌は菩提所の東禪寺(御船町邊田見)にあり、江戸時代に画かれたものであるが宗運画像も蔵(ゾウ)せられている。
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【島津軍団、肥後、日向に進攻】(三)

             【きょう12時頃の不気味な空模様】
空模様2

【島津軍団、肥後、日向に進攻】(三)をきょうも記したいと思います。

「一、宗運の島津折衝と死」  のつづきです。
肥後では、甲斐氏が和平交渉中で動かないのをみて、島津方は、高森城を攻め始めた。
阿蘇地方での阿蘇・大友方の最大の拠点である高森城は、城主高森惟直が岡城(大分県竹田市)の大友家臣志賀親次(チカツグ、チカヨシ)と連絡を保ってよく防ぎ、島津方は、この後も幾度か攻めるが、手を焼いた。
島津氏は、甲斐宗運攻めと龍造寺隆信との決戦のどちらかを先にするか迷っていた。
宗運の言動をみると、心から島津に臣従(シンジュウ)するつもりはないもののようであった。
島津氏が、巡察のため御船に送った本田刑部少輔は宗運から非常に非礼な接遇を受けた。この時期、宗運の思惑がどうしたものであったかは不明だが、宗運の粘り腰の交渉が、島津氏の益城進攻、豊後進撃を遅延させてしまったことは事実である。宗運が全国平定を志している豊臣秀吉の動きに通じていたとは思えないが、月日を送っているうちに、何かの大きな情勢の変化が起こることを期待していたのであったろうか。
こうした宗運の努力にもかかわらず、島津の圧力に脅威を感じた人々の中には、健軍城主のように島津方である隈本城の城久基(ヒサモト)の保護を願って阿蘇陣営から離脱する人も出ている。この健軍城主は誰であったかはわからないが、甲斐一族の人であったことは間違いない。健軍城そのものは甲斐氏が保持していたことからみると、代りの城主を宗運が派遣したものと思われる。
宗運の真意をただすためか、島津方は、十月七日、堅志田の城下に進入し、城下の建物を焼くなどしているが宗運は動かなかった。
また、八日には、名和顕孝(ナワアキタカ)の兵に隈庄を攻めさせた。名和の兵は島津の部将野中文綱の監督下に激しく攻め立てたが、城方の手きびしい反撃を受け四十人もの戦死者を出して敗退した。
九日には、隈本城の島津方の番将北郷忠虎(ホンゴウ タダトラ)が、城一要の兵を併せて健軍城を攻め、この方は攻め落としてしまった。
こうした島津方の挑発的な示威(ジイ)に対して宗運は動かなかった。
島津方は、小川と益城の境にある沙婆神峠に近い標高百五十メ-トル程の高さの花の山(現下益城郡豊野村大字上郷字高峯城)に城を築いて、益城進攻の拠点とした。
城は十月二十五日に築城を決定し、二十七日に城の構えが定められて、二十八日から工事を始め、十一月二日に、あらかた完成させた。       (つづく)

【島津軍団、肥後、日向に進攻】(二)

        【我が家の近くに咲くアガパンサスという花】
アガパンサス1

【島津軍団、肥後、日向に進攻】(二)をきょうは、記したいと存じます。

「一、宗運の島津折衝と死」 のつづきです。
十一月二十日になって、宗」運は八代の島津氏の本営へ降伏の意志があることを告げた。二十二日になって宗運は降伏の条件を示したが、それは、先に島津氏が占拠した郡浦(コウノウラ)、網田、小川、海東、以上阿蘇神領四ヶ所を阿蘇大宮司家に返還してくれというものであった。
とても島津氏としては承認できない条件であった。中でも宇土半島の郡浦(コウノウラ)は、先に郡浦の守り城である矢崎城を島津・名和連合軍が激しい戦いの後、攻め落として占領した土地で、島津氏は既に名和顕孝(ナワアキタカ)に与えてしまっていた。今更、返せるものではなかった。
なお、矢崎城は、たいていの文献が、城将中村惟冬(タダフユ)が頑張って城を支えて戦い、支えきれなくなると斬って出て討ち死にしたと勇戦をたたえている。夫人も武装して出撃したという。上井覚兼(ウワイカクケン)日記には、惟冬(タダフユ)の子息が人質として隈本にいるのに、退屈しているようなので遊び道具に鉄砲を与えたという記事がある。惟冬の戦いが事実であったなら、この人質の運命はどうなったのであろう。別の日付の頃には、上井覚兼(ウワイカクケン)は、肥後の人たちからは人質をとってみても、どうということはないから困る、嘆息(タンソク)している箇所がある。
なお、惟冬は阿蘇南郷(現長陽村)の長野一族で、本家の長野惟久も、天正十三(1585)年冬、薩軍の攻を受けたとき、城を枕に戦死している。中村惟冬を矢崎の城将として推挙したのは宗運であったと伝えられている。
島津方では、四領の返還を求めるなど無礼であると拒否し、降伏は認めない、討滅してしまうと返答した。宗運は今度は無条件でもいいから降伏を認めてくれと願い出た。
島津方では、子を人質として出すか、あるいは、隈部氏を討って誠意を示せと要求した。宗運は、人質を出さず、隈府討伐も実施しないままに日を過ごし、更に、島津の諸将に和儀成立を祝う祝儀の進物を贈った。島津の将たちは、和平交渉が実質的には何も進捗(シンチョク)していないのに、祝儀の品など受け取っていいものかどうか困惑した。
天正十一(1583)年の暮れになって、ようやく、宗運と親教は人質を八代へ送り出した。このとき人質になった人々の名はわからない。
島津方が、宗運を一気に攻め始めなかったのは一方に龍造寺隆信との戦いも控えていたからであった。
島津氏の勢力が、肥後に達し、また天草の諸将も島津氏に服属したのをみた筑前、筑後、肥前で龍造寺氏と戦っていた諸氏は、島津に援助を要請し始めていた。
既に天正十(1582)年には、有馬鎮貴(シゲタカ:晴信)の要請に応じて川上久隈を将とする一隊を肥前の島原に派遣している。    (つづく)

【島津軍団、肥後、日向に進攻】(一)

                【我が家の近くにいた珍しい蝶?】
                   若干小さいのでピント甘し
蝶

【島津軍団、肥後、日向に進攻】(一)をきょうは、記したいと思います。長文ですので数回に分けて記したいと思います。

一、宗運の島津折衝と死
天正九年(1581)八代に本営を進めた島津軍団の動きは活発になってきた。
先に述べた相良義陽(ヨシヒ)を益城に進攻させたのも肥後進攻作戦の一環であった。
こうした島津氏の動きに対応して南関を本営にしていた龍造寺(リュウゾウジ)家晴も肥後の中央部から南部へ圧力をかけ始めた。
隈本城の城親賢(チカマサ)は、島津氏に積極的に協調していたが、天正九(1581)年三月十七日、龍造寺氏に服属の起請文を提出している。同じ日に、宗運も龍造寺氏に服属を誓った。
宗運が龍造寺の兵と戦ったという話が残っているが、小競り合いはあったのであろうか。事実とすれば九月三日以前のことであったろう。
この折の起請文に、甲斐民部入道宗運とともに連署しているのは、甲斐掃部入道紹員、甲斐兵部大輔、甲斐刑部入道紹作、甲斐左京入道、甲斐中務丞重信、隈庄太郎親教である。これらの人々が当時の甲斐党の旗頭であったと思われる。このうち、宗運、親教、紹員は他の史料にも名が出ているが、他の人々がどんな人たちであったかは全く伝わっていないし、系図にも名が出て来ない。
なお、この時期の甲斐一族中の重要人物であったと思われる甲斐刑部太輔鎮隆、甲斐兵部頭、甲斐大和守親英(チカヒデ)、甲斐相模守親秀(チカヒデ)といった人たちの名が見えないのはどうしてであろうか。
連署の中の隈庄太郎親教(チカノリ)は、前年の天正八(1580)年、宗運に攻め落とされた甲斐守昌(モリマサ)に代わって隈庄の領主となった人であることは間違いないと思われるが、この人も一般に流布(ルフ)されている甲斐氏系図には出てこない。宗運についで重要人物である親教(チカノリ)にしては不思議である。敢えて臆測するならば、隈庄との度々の紛争に悩まされた宗運であったから、せっかく攻め落とした後は自分の意に応じて動く人物を隈庄に配したであろうことは当然考えられることである。
この時代の常識的人事から考えて、宗運の子供たちのひとりであったろう。また隈庄の重要性からして相当に有能な武将であったに違いない。
明けて天正十(1582)年になると、龍造寺方は龍造寺家就(イエナリ)を将として兵を益城に入れた。龍造寺の兵は御船の城下にもくりだし示威(ジイ)を行ったと云われる。宗運がこうした龍造寺の動きにどう対応したかは何も伝えられていないが、後に島津方と折衝したときの要領のよさから推察すれば、抜け目ない応接をしたであろうと思われる。         (つづく)

【島津軍団、肥後、日向に進攻】

             【我が家の近くの庭になる栗の実】
栗

【島津軍団、肥後、日向に進攻】 「まえがき」のみ記したいと思います。

八代、隈本を拠点として、島津軍団は肥後制圧の準備を完了した。日向方面では、いろいろな工作を行なって、従来は大友氏に協力的であった諸氏を味方につけることに成功した。甲斐宗摂(ソウセツ)がこれに応じる。
この時期、龍造寺氏は隈部親永(チカナガ)、和仁親実(チカザネ)、大津山家稜(イエカド)ら肥後北部の国衆(クニシュウ)と結んで肥後北部をほぼ制圧していたが、更に隈本の城親賢(チカマサ)、益城の甲斐宗運にも働きかけ、天正九(1581)年には宗運は服属の起請文を提出している。島津氏への備えであったろう。
天正十(1582)年に入ると龍造寺方の将兵が益城に進入し、盛んに示威(ジイ)の行動をとったという。宗運は島津氏にも服属を申し出て、巧妙な外交手腕を発揮する。島津氏は、天正十二(1584)年に島原に遠征し、龍造寺(リュウゾウジ)隆信を戦死させると、いよいよ益城へ進め入ろうとしたが、その直前、宗運は急逝する。

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