【甲斐一族の繁栄】(六)

              【けさの日乃出 5:23頃 快晴】
日之出1

【甲斐一族の繁栄】(六)について、きょうも記したいと思います。ご覧頂ければ幸いです。
次回は、「親宣と敦昌について」です。

惟豊が高千穂の鞍岡に逃れてきた当時、甲斐一族は、領主の三田井(ミタイ)家配下の武士団の中で最も勢力を持つ氏族として成長していた。
甲斐氏の主流を継いでいたのは、甲斐重安(シゲヤス)で、重安の子、重綱(シゲツナ)と重久(シゲヒサ)の子供たちが、この時期、成人していて、三田井領内の国人領主として、また甲斐一族を代表する人として重きをなしていた。この系統の他にも、甲斐一族の人々は、各地に散開して、城館を構えていたと推察される。中世の伝承や史料に頻出(ヒンシュツ)する甲斐姓の人は多い。甲斐氏を名乗る家が非常に多いのは、甲斐氏が地縁血縁を持つようになった人々、主従関係を持つ人などに甲斐氏を名乗ることを多く許したせいであろう。甲斐氏の声望が高かった証左(ショウサ)と云えよう。ただ、これらの人々の系譜は不明な場合が多いのは残念である。
ここでは、本書に直接重要な人物として登場する甲斐氏の人々の略系を、読者の便に供するため整理した形で掲載する。
                系図
重綱(シゲツナ)は早く明応四(1495)年に亡くなっていたが、重久の方は、惟豊(コレトヨ)が鞍岡に来た時には、なお健在であった。
高千穂四十八城と云う。これは、阿蘇二十四城という言葉と同様、必ずしも四十八ヶ城があったというのではないが、高千穂を中心に三田井氏配下の城館が数多く展開していた。それらの城の城主、番将として、甲斐姓の武将の名が多く伝えられている。
惟豊が住んだ鞍岡(クラオカ)の城主は甲斐親宣(チカノブ)であったと云われる。惟豊は親宣の支援をとりつけた。惟豊の臣の男成(オトコナリ)兵衛尉、小陳治部少輔惟住が親宣を説得したといわれる。
いちおう、三田井氏の諒承(リョウショウ)は得たと思われるが、親宣は惟豊に従うことを承諾した。
永正十二(1515)年、惟豊は矢部に討ち入って、浜の館から惟長、惟前父子を追い、三月十八日、大宮司職を奪還した。この惟豊の浜の館(ハマノヤカタ)復帰は、永正十四年とするのが通説となっているが、永正十三年には、菊池重治が甲斐親宣に御船の内三十五町を与えたということが史料にあるので、本書では、矢部風土記にある永正十二年三月十八日説をとった。
小国の北里義重、室原鑑知、阿蘇南郷の村上惟民、堅志田(カタシダ)城主であった西惟宗ら以前からの阿蘇家臣の他、押方忠政のような日向の武士が甲斐親宣とともに従軍した。なお、西氏は、惟長、惟豊の両派に一族が分かれて従っていたかと思われる。惟長派の武士として、祝部、村山、竹崎氏らの名とともに西氏の名も文献に見えるからである。
追われた惟長父子は、相良領に逃れて、再起の機をうかがうことになった。
肥後の甲斐氏関係要図
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【甲斐一族の繁栄】(五)

                【けさの日乃出 5:24 快晴】
日之出4

【甲斐一族の繁栄】(五)をきょうも記したいと思います。ご覧下さい。

三、甲斐一族の肥後進出
阿蘇惟長(コレナガ)が菊池家督の座を放棄した時の様子を具体的に伝える話は残っていない。惟長は、既に阿蘇大宮司としての地位を確固としたものとしていた弟の惟豊(コレトヨ)に、大宮司職を返すように要求したが、惟豊は拒否した。
この当時、大宮司は、阿蘇大社の神職の最高位者であると同時に、阿蘇八千町と呼ばれる土地とそこに住む人々を支配する大領主であり、住民の中の主だった地主たちは、武士であり、大宮司を棟梁とする武士団を形成していた。
肥後では、菊池家臣団、相良家臣団、名和家臣団、その他、荒尾の小代(ショウダイ)氏、玉名の大津山氏、合志郡の合志氏など独立性の強い氏族が、武士団を形成していた。菊池家臣団は、有力氏族である赤星氏と隈部氏が対立し、権力争いをしていたので、武士団としてのまとまりに欠けていた。阿蘇家臣団は、惟長派、惟豊派に分かれたのだったが、いったんは他家を継いだ惟長よりも大宮司職を継承した惟豊支配者の方が多かったのは当然であった。
大宮司職復位を拒否された惟長は、子の惟前(コレサキ)とともに武力に訴えることにして、薩摩地方の阿蘇社領に赴いて、兵力を養い、永正十(1513)年三月十一日、惟豊の居館であった上益城郡矢部の浜の館(ヤカタ)に攻め寄せた。惟豊は北里、宮原、矢津田氏らの協力で堅志田城にたてこもったが、支えきれないで、日向高千穂の地縁を頼って逃れた。
惟長は子の惟前(コレサキ)を大宮司にした。
惟豊は則近の武士に守られながら、鞍岡(現宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町鞍岡)に住んで再起の機会をうかがった。
阿蘇氏は古くから、高千穂地方に社領を持っていた。高千穂地方の一部は古くは阿蘇郡知保(チホ)郷と呼ばれて、肥後国に属していたことがあり、高千穂の人々と阿蘇家との結びつきは深いものがあった。
なお、肥後に於ける甲斐氏として、最も早く阿蘇家の重臣として活躍したのは、日向高千穂の黒仁田(クロニタ)に住みついて黒仁田氏を称した甲斐一族であった。
「矢部風土記」等の伝えるところでは、既に南北朝時代に、阿蘇家の勝山(カツヤマ)城を守って、大友氏泰(オオトモウジヤス)と戦ったりして戦功をたてている。永正十年からの惟豊と惟長の争いの時期には、惟豊に協力した諸氏への感状などにも惟豊側近の重臣として署名している。黒仁田氏の家督は代々豊後守(ブンゴノカミ)を称し、阿蘇大宮司館警固(ケイゴ)の勤番役として岩尾城の城主も勤めた。後年、勢力拡大を図る甲斐宗運と衝突するが後述する。(つづく)

【甲斐一族の繁栄】(四)

             【けさ日乃出時刻(5:26)頃の空模様】
             雲間から日乃出が若干確認できます。
日之出b

【甲斐一族の繁栄】(四)をきょうも記したいと思います。宜しければご覧下さい。
「二、 肥後に於ける菊池氏の衰亡」のつづきです。
次回は「三、 甲斐一族の肥後進出」です。

能運(ヨシユキ)は、名和顕忠(アキタダ)が八代を明け渡した直後に、八代の陣営で急死した。能運二十五歳の若死であり、後継者は定まっていなかった。
菊池家臣団の一部に菊池一族の菊池政隆(マサタカ)を擁立する動きがあったが、多くの家臣たちは、大友氏の支援を受け、また相良氏とも親密な阿蘇大宮司惟長(コレナガ)を擁立しようとした。政隆は大友の部将朽網(クタミ)親満の兵と玉名で戦って敗れ、自害して果てた。
阿蘇惟長が菊池武経(タケツネ)と名乗って菊池家督となった。永正三(1506)年のことで、建武元(1334)年に、菊池武重が肥後守に就任して以来、百七十年余り続いた菊池氏の肥後支配は中断した。惟長(コレナガ)は大宮司職は弟の惟豊(コレトヨ)に譲った。後に惟長が大宮司職を取り戻そうとして惟豊と争い、惟豊が甲斐一族の力を借りたのが、甲斐武士団の肥後移住の因となる。
惟長は、六年後の永正八(1511)年にせっかく手に入れた菊池家督の座を放棄した。おそらく、菊池家督の肥後守護職としての権勢、権益が、阿蘇大宮司職のそれとくらべて比較にならない劣弱なものであったからであろう。
また家臣団に対する支配力が弱く、惟長(コレナガ)を通じて肥後支配を行おうとしていた大友氏の意向に副(ソ)う政治ができなかったため、大友氏から圧力を受け、居たたまれなかったのであったかもしれない。
この後、惟長がとった行動が甲斐武士団と関わりを生じることは既に述べたが、その後の肥後守護職には、時の豊後守護大友義鑑(ヨシアキ)の弟義国が菊池重治(シゲハル)と名乗って菊池氏の名跡を継承して就任した。菊池重治が、実際に肥後の隈本城に入ったのは永正十七(1520)年であったが、遅くとも永正十三(1516)年には、既に肥後守護職に就いている。こうして、大友氏は肥後支配に成功したのであったが、この重治(シゲハル)が、大友家の利に反する動きを示すようになるので、肥後の戦国史は複雑になる。重治の動向に甲斐一族の動きもからむのは当然である。

【甲斐一族の繁栄】(三)

     【舞踊団 花童&はつ喜 於:玄宅寺】
昨夜行われ、最後の挨拶の後、皆さんで「また、玄宅寺においでまっせ」と首を横に
花童1

【甲斐一族の繁栄】(三)をきょうは、記したいと存じます。ご覧頂ければ幸いです。

二、肥後に於ける菊池氏の衰亡
日向で勢力をたくわえた甲斐の人々は、やがて、肥後にも進出するのであるが、御船や隈庄(クマノショウ)領主となった甲斐氏がやって来るまでの肥後の国情について述べておくことが、甲斐氏が肥後の戦乱に巻き込まれるに至った経緯を知るには必要と思えるので、いちおうの概観を試みる。
肥後では、一時期、筑後の守護職を大友氏から奪い取るなど勢力を強めた菊池氏が、反発した大友氏によって、筑後を奪い返えされると、急激に守護大名としての権威を失っていった。もともと菊池氏は、一族の運営を配下有力家臣の合議によって行なってきた。ひとつには、南北朝時代に、菊池氏は九州では数少ない南朝方に立って戦ったが、北朝方は、菊池軍の勢力を削減するため、利をもって、菊池家臣団を離反させようと努力した。これに対抗するには菊池家督は、家臣たちに多くの権益を与え続けなければならなかった。従って、戦国時代に入って、家督の強力な独裁力が必要とされるようになったとき、専制政治を行うことのできなかった菊池氏は、さしあたっての当国の敵である豊後の大友氏に対抗できなくなっていた。筑後守護職を奪回した大友氏は、動揺する菊池家臣団に働きかけて、肥後に内紛を続発させた。
まず、菊池家督の座を狙って立ち上ったのは宇土氏であった。宇土忠豊は時の菊池家督重朝(シゲトモ)の叔父為光(タメミツ)を養子に迎えていたが、この為光を押し立てて、重朝に戦いを挑んだ。
宇土氏には相良(サガラ)氏の支援があった。相良氏が菊池氏打倒に力を貸したのは、人吉・球磨を本拠としていたため、港湾を欲しがっていて、球磨川の下流の八代を自領にしたいと願っていたが、八代を領していた名和氏が菊池氏と親密な関係にあり、名和氏を八代から追うには背後の菊池氏を潰(ツブ)す必要があったからである。この相良氏と名和氏の争いは、後に両氏の所領と隣接した土地を支配するようになる甲斐一族とも深い利害関係を生じさせる。宇土為光は最初の挙兵から十四年目に、宿望を果たして菊池の隈府(ワイフ)城を攻め落とした。しかし、宇土為光は相良氏の中央進出が、やがては自らの脅威となると判断したのか名和氏に肩入れし、失望した相良氏は、為光(宇土)に追われて島原に流れて行って再起を図っていた菊池能運(ヨシユキ)に力を貸し、能運は肥後に入って、玉名で宇土為光を破り、進んで宇土を攻め落とした。為光は斬られ、宇土氏は亡びた。この時、相良氏は八代城を包囲攻撃していた。
能運は八代に行って、名和顕忠(アキタダ)に八代を相良氏に渡すよう勧告し、代りに宇土を名和氏に与えるようにした。こうして、名和氏は宇土へ移ったが、八代回復の希望は捨てず、これ以降、八代を本拠とする相良氏と、宇土を本拠とする名和氏は中間地点にある小川、豊福の争奪戦を切り返すことになる。 (つづく)

【甲斐一族の繁栄】(二)

            【きょうの日乃出 5:28頃 本日も快晴】
日之出2

【甲斐一族の繁栄】(二)をきょうも記します。お読み頂ければ嬉しいです。次回は、「肥後に於ける菊池氏の衰亡」です。

「一、甲斐一族」 のつづきです。
ここで想起されるのは、菊池武重が一族の団結を誓い合う誓文「寄合衆案内談の事」という有名な文書を作製したのが、ちょうど、重村が肥後に対して働きかけを行っていたと考えられる延元(エンゲン)三(1338)年七月二十五日であったことである。武重がこの文書を書いた動機はいろいろであったろうが、ひとつには、重村の九州入りが一族の強固な団結を最大の武器として孤軍、北朝軍の圧力をはねかえしていた菊池武士団に、あるいは内部分裂の危機を招くかもしれないといった危惧(キグ)を武重が抱いたからではなかったかと思われる。重村の父武本に地縁血縁を持つ菊池の人々は、まだ多くいた時期である。
延元三(1338)年九月五日、大友の軍勢とともに、重村は菊池本城のある隈府攻略をめざして肥後に進攻した。無念の死を遂げた父武本の仇(アダ、カタキ)を討つ好機であった。
重村の進攻を知った菊池軍は、隈府の東方十三キロ程のところにある鞍岳の麓で迎え討った。かなりな激戦となったが、重村らは敗れた。重村が攻めたと云っても、重村の一族は僅(ワズ)かな人数であったろうし、主力は大友軍であり、敗戦の責任は重村にはない。
豊後へ敗退した重村は、再挙の機会を得ないままに日向の土持氏(ツチモチシ)に身を寄せた。土持氏は、北方(現北方町)に重村を住ませたと云われているが、やがて、重村は高千穂領主の三田井(ミタイ)家を頼って高千穂に移ったと云う。この間の重村一族の動静を詳しく伝える史料はない。もちろん、全部が移ったのではなく、一部の人々は土持家臣として残り、戦国時代に入って、土持氏配下の武将として活躍する。
以上のようなことが、日向甲斐氏の起こりとして伝承されている。
異説もあって、菊池武村が甲斐に移り、その子重村が日向甲斐氏の祖となったという大筋には変わりないが、後年、肥後の隈庄領主となり、本書の主要な登場人物のひとりでもある甲斐親昌の家系図には、早い時代に、武村の子が日向土持氏の婿(ムコ)になり、その子孫が重村で、鞍岳の敗戦後、重村は高千穂に逃れ、三田井(ミタイ)氏を頼ったという記事があるという。南北朝末期の土持氏の合戦に甲斐重幸という人が従軍して戦死したというが、重村の日向入り後、甲斐一族は土持方の部将として、出陣した可能性はじゅうぶんあるので重幸戦死は事実であろうか。
南北両朝の合体で併立期の戦乱が終わると、足利幕府は、時の菊池家督武朝(タケトモ)を肥後の守護として認めた。
甲斐氏が住みついた日向は、土持、三田井氏のほか、伊東、畠山、今川、島津、北原の諸氏が入り乱れて争い合った南北朝時代の戦乱の余波が引き続いて、合戦の絶え間がなかった。甲斐氏の人々も、これらの合戦に従軍して軍功をたてたものと思われる。当時、氏族の繁栄には、まず土地が必要であった。そして、所有地を拡げるには、甲斐の人々のように三田井、土持などの配下にあるような立場にある場合は、三田井、土持氏の関係する合戦に軍功をたてて報酬として土地[知行(チギョウ)地]を与えられるという方法しかなかったのであった。
日向では、関東から鎌倉時代以降土着するようになった関東武士の伊東一族と、南北朝時代に足利尊氏から派遣されてやってきた畠山氏が、室町時代に入って日向の支配権をめぐって伊東氏と争っていたが、畠山義顕(ヨシアキ)が死ぬと、伊東氏は足利幕府に働きかけて日向守護職を得た。
しかしながら、古くからの土地の先住豪族のひとつであった財部(タカラベ)[高鍋]の土持景綱、県(アガタ)[延岡]の土持宣綱は、伊東氏によって従来からの権益を侵されることを拒否して戦いとなり、康正(コウショウ)二(1456)年から十回近く合戦をくり返したが、康正三年七月十九日の戦いで、土持景綱が戦死した。この戦いは激戦で財部土持の家臣たちが戦死したが、戦死者中の甲斐和泉守という人の名が見える。
甲斐氏の人々は、広く日向に分れ住んだのであるが、残念なことに、一氏族としての系図が伝わっていないので、多くの場合、甲斐を氏とする人の系譜は不明なことが多い。この甲斐和泉守にしても、日向甲斐氏の祖とされる甲斐重村(シゲムラ)との血縁関係は不明なのである。