【拾集物語三】(完)

              【4/24の日乃出 5:49頃】
日之出1
           【きょう 6:02頃、雲間からの日乃出】
日之出2

【拾集物語三】は、きょうをもちまして完了です。お読みいただきありがとうございました。
厚く御礼申し上げます。

         『加藤肥後守忠廣公の御事』

一 右に少し書出侯通に清正公御五十有餘に而被成御逝去御跡御改易(カイエキ)無御座候従 家忠公樣忠廣へ肥後國被爲拝領國内上下萬民千秋萬歳と歡喜(カンキ)仕たる旨尤に侯

一 忠廣公御若に被成御座御家中下がちに御成加藤右馬允(ウマノジョウ)殿同美作(ミマサカ)殿兩家老中惡く御成被成右馬允殿方と美作殿方と二つにわれ家中令混亂(コンラン)侯右馬殿の方から美作殿方を牛方といひ馬方牛方と申侯而御家中正二つになられ江戸にも大取沙汰(トリサタ)故に奉達上聞に右馬允美作被召寄被遊御吟味右馬允理分に被仰付美作を初め彼方(アチラ)がたの仁人夫/\(ソレゾレ?)に諸國に御配流被仰付無事に成侯由に侯

一 公方(クボウ)樣の忠廣公は御姪聟(メイムコ)御に被仰付御國目出度歡喜仕侯由の侯

一 然處(シカルトコロ)に忠廣公御二十有餘の砌(ミギリ)から肥後國闇(ヤミ)に入侯樣どことなしにせは/\敷上々の御衆慾深く御なり山川をも是は何某(ナニガシ)殿の山是は何某殿の川此野は何某殿の開地傍と申侯而下々百姓をいきをつきかじけはて女子賣(ウ)り在所を立去令亡所侯乍下々有心の仁人御家御長久(チョウキュウ)に御座候へかし前々國代阿蘇惟種(コレタネ)公御早世以後下がちにて百姓せんかたなくいきほしをつき居侯へば薩摩より出馬に而肥後薩摩の下々兩年相成侯て大形半納無年貢位にて國内少々いきをつきながし侯などゝ申者多(モウスモノオオク)侯由に侯

一 忠廣公御在國之砌(ミギリ)急速に罷上侯樣にとの 御上意に而早々御發足被成侯處に
公方樣の御前惡く出羽國へ御配流(ハイリュウ)被仰付侯 加藤の御家御落去被成侯

一 寛永九壬申(ミズノエサル)之(1632)年の六月從 家光公樣右之通に被仰出御落去に而御座候
一 御流罪被仰付侯に被爲差下侯御役人
一 御上使内藤左馬樣稲葉丹後守樣
一 御奉行伊丹播磨守樣秋本但馬守樣
一 御横目秋山修理樣石川三右衛門樣
一 熊本御城番 石川主殿樣    石川惣十郎樣
            中川内膳樣    伊藤修理樣
一 八代御城番  秋月長門守樣   島津右馬樣
            稲葉民部少輔樣  秋月右衛門佐樣
    右之通之由に御座候

一 左候而寛永九(1632)年一年は天下樣の御藏納に御國は相成追々 光利公樣被遊 御入國侯由に御座候

一 忠廣公は蒲生飛騨守(ヒダノカミ)樣と申御大名之聟御(ムコゴ)に被爲成御子息(ゴシソク)樣を豐後守樣と爲申上と申侯

一 忠廣公ちと御うは氣に被成御座候に付江戸御大小名衆樣達御見苦敷(ミグルシキ)被思召をり 御前向き不御宜被成御成侯と其比(ソノコロ)申侯由に侯

一 御仕置こま過侯而放下、手槌(テヅチ)、ごせ、座頭、うた三味線、下々共聞侯事も不罷成山河の御制止色々諸事下々迷惑がり申侯處に右の通御落去と申侯
右越中守(エッチュウノカミ)樣御入國侯と其まゝ闇晴夜の明侯樣に御座候而御國民なべて千秋萬歳樂をうたひどめき申侯と申侯此旨趣別冊に書出侯

一 清正公碧川(ミヂリカワ)塘筋御巡覽被成被仰侯は此塘を根足二十間高十間留十間に致侯得ば如何(イカ)成る洪水山しほなど申とも切れ申間敷侯しかし向は自然の巖崛(イワヤ?)高にて年々洪水抔(ナド)にて川内次第に深く成一向田方用水のために成不申侯とかく此川は淺く侯はでは用には立不申侯たとひ五六十年には塘切地方損侯とも年々出來の作毛には此かたく侯間わざと如此(カクノゴトク)侯と被仰侯由語傅侯

右曾祖父玄察十遺の記録十巻餘御座候處去冬二巻燒亡(ショウモウ)仕侯内此一條記臆仕侯間如此(カクノゴトク)に御座候以上
   未 九月        渡 邊 周 齋 識
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【拾集物語三】(二十五) 渡邊玄察著

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【拾集物語三】(二十五)をきょうも記したいと思います。宜しければご覧下さい。
次回は、『加藤肥後守忠廣公の御事』です。

    『清正公阿蘇惟善を同神主に被成御取立侯事
    附り色々之事』 この項は完了。
一 秀吉樣北條氏政(ウジマサ)を御亡し可被成とて關東へ被遊御出陣彼(カノ)氏政は關(関)八州之屋形樣とあふぎ申たる由に侯御剛將にて御座候を被爲入御手侯に加藤清正を其砌(ソノミギリ)如何被思召侯哉御供不被仰付侯由に侯肥州半國御拜領時分かふさねて被爲拜領侯砌(ミギリ)の御事は不分明に侯右の通の處(トコロ)に從御跡可被成御出陣とて被成御立侯へばはや北條被爲入御手被遊御歸陣侯に尾張の國に而秀吉樣へ被遊御目見え御祝詞(シュクジ)被仰上侯へば御機嫌宜く御前に而色々被仰出侯に清正被仰上侯は上樣の御生所當國中村へ被遊御光入御位光を御拜(ゴハイ)せ被遊侯はゞ天山可被難有旨被仰上侯へば能こそ申上侯と被仰出其通りに被仰付侯と申傳侯清正公も御同國御同所の御生所に而被成御座候故御一家御親類御縁類衆其外如雲霞(ウンカノゴトク)の御來入に金銀は一毛も不被進わたをひきつむぎををり勝手になられ侯事を御了簡被遊金銀は不被遣何やかやと減少可仕侯御一人/\の御生齢に被應一生中御所持にてつむぎ御織被成分の眞綿(マワタ)を可被遣とて御一人に付五百把八百千把と眞綿を被進侯と申侯

一 清正樣御五十有餘に而被遊御逝去(セイキョ)追々肥後の國を虎籐殿と申に忠廣公の御事に而從 將軍樣被成御拜領侯由と申侯

一 清正樣御城茶臼山と申山を只今の御城に御築き被遊侯に一城を御取被成侯には地鎭(ジチン)と申秘法顯密傳燈權者位の智僧被成御執行之由に侯就夫(ソレニツイテ)左樣の僧都御國中に有無之御穿鑿(センサク)被遊侯に益城甲佐三宮明神の社僧學頭豪淳法印神宮寺顯密傳燈大僧都と豪勅許ヲられたる法印御座候旨清正樣被聞召通彼(カノ)法印に地鎭の法被爲仰付侯先以豪淳御意(ギョイ)之趣奉承知被申上侯由は老極仕御城建立之立法兵行不如意(フニョイ)に御座候一城一世の秘法にて御座候を愚僧(グソウ)中年迄執行不仕殘念に存此以前愚僧が寺百姓に尾園と申百姓目が屋敷仕立申に付おのれに秘法の地鎭令執行とらすべきと申侯而地鎭の法を執行いたし呉申侯最早(モハヤ)兩度と令執行侯儀は不罷成侯併愚老の弟子弟に合志郡彌語山に罷在侯悟智と申法印同學に而右之秘法致傳授侯彼(カノ)法印七十齢には過申間敷侯地鎭兵法之儀も罷成可申侯間彼法印に可被仰付侯若秘法の内に失念(シツネン)の事共侯はゞ愚僧改可申侯と被仰上侯へば能こそ申上侯とて彼(カノ)悟智に被仰付侯然者悟智御請申上甲佐宮豪淳に入來侯て新城地鎭の法被相改御新城の地鎭秘法兵法の修行悟智法印茶臼山(チャウスヤマ)に参上御執行の由に侯祖父(軍兵衛)参上仕右の秘法執行を被致拝見老父(吉政)に細々語傅の旨亡父拙老(玄察)若輩の砌被申聞侯右修法兵法と申事は法印なはのたすきをかけられ白晒(シラサラシ)の長刀を四方八方へつかひ城の眞中にてつかひをさめられ侯由に侯祖父(軍兵衛)長刀の手も被存侯由に侯へ共及かたき悟智の手にて侯と被申居侯と亡父(吉政)被語聞侯扨又(サテマタ)右の法首尾後御新城立地の正中(ショウチュウ)に而御酒を被成御祝侯に其比(ソノコロ)櫻井素丹と申連歌師清正樣御信用被遊侯仁(ジン、ヒト)の由に侯彼素丹御祝の狂歌を被差上侯由に侯
きり/\と石ひきまはす茶臼山
てきに加藤の城そとりける
右の狂歌をぼでんの木の枝に結ひ付被差侯に清正樣殊外(コトノホカ)御機嫌能(ヨク)悟智法印に白銀百枚素丹に同十枚被爲拝領侯由に侯其脇そたんに祖父(軍兵衛)木槿(ムクゲ)の枝に貴詠を御付侯御事はいか樣の譯(ワケ)に而侯哉と相尋られ侯へば御祝儀には彼(カノ)木に結(ユイ)付て出侯物にて侯と被申侯と祖父亡父に被申侯と亡父被申聞侯

一 別册に書出侯通りに清正樣は四季に被遊御廻國諸所被遊御覽侯而西から東か北から南にながれ侯川か谷か有之所の者は必/\横道に侯左樣の川谷水を飲侯者は不實成者じや/\と左樣成所に而は被仰御座候と申傳侯

一 豪淳一代に一度外新城地の秘法は修行いたさぬ事にて御座候愚僧が寺百姓尾園と申百姓が屋敷一ケ所修行仕侯故老極と申右之通故に御新城の秘法罷成不申侯と被仰上侯に彼(カノ)尾園屋敷に秀吉樣肥前國名護屋(ナゴヤ)に高麗(コウライ)御陣の樣子可被遊御貴聞とて御新城被爲築侯御砌(ミギリ)砥用山てに御材木被爲剪(キリ)大切の御大名衆樣被遊御宿 肥後守樣被遊御他界御數人之御上使樣彼尾園へ被遊御入宿侯御當太守樣御數度彼(カノ)屋敷へ被遊御光入不思儀奇妙と奉存侯豪淳僧都の一語と後年に存當侯

【拾集物語三】(二十四) 渡邊玄察著

         【きょう久し振りの日乃出 5:50頃 快晴】
日之出1
       【ブル-インパルス熊本地震被災地応援のため飛行】
         我が家から撮影 望遠レンズ200mm 1/500sec
ブル-インパルス3

【拾集物語三】(二十四)をきょうも記したいと思います。長文の為、ダラダラとなってますが相済みません。お許し下さい。

     『清正公阿蘇惟善を同神主に被成御取立侯事
     附り色々之事』  の続きです。
一 清正樣肥後をふさねて被遊御領侯而折々御國中第一行長跡領に被仰付侯は切支丹宗門御法度(ゴハット)日の本は神國にて侯間神事祭禮怠慢仕間敷侯と年々に御觸(オフレ)被成侯と申傳侯御尤(ゴモットモ)と奉存侯は高麗(コウライ)にて清正樣神秘不思議日本神慮を被成御見聞侯と申傳侯

一 清正樣は鬼神(キシン)の樣に奉申侯と申侯へ共御慈悲深き太守(タイシュ)に而被成御座たる殿樣にて御百姓御未進高十石の御百姓御未進三年に十石御座候は又三年に上納仕侯へと被遊御免侯三年之内に御未進高十石に十石一斗御座候而も被爲許侯由申傳侯

一 熊本新一町目御古城下の堀にひざより上に立侯て上らざるやうにふみてすね中だち有之樣に水上にたなゆかを被仰付其上に雨にぬれ不申樣の小屋を御作せ是(コレ)が水籠(ミズコモリ)に而高未進の御百姓を霜月(十二月)師走に其水籠に被成御入三日被召置御請乞申上侯へば御出し三日御請乞不申上侯者は不被遊御免出籠不被仰付侯ひつると申侯彼(カノ)水籠に親子他類より酒飯菓子見廻に遣侯は被遊御免侯と被仰出侯に付何郡何村何某は何方(ドチラ、ドッチ)へ罷在侯哉と高聲に申侯而竿(サオ)にゆはひ付遣侯を被下酒狂に申侯は此堀に町人共を追除(オイノ)け家跡のこやし土をうづめ田を作り侯はゞ餘(ヨ、アマリ)に出來過實有間敷侯いや/\芋(イモ)を植侯はゞてゝわんほどのいも可有之と仁人(ジンジン)高聲におめき申を御忍び被聞召上彼等(カレラ)が土人(ドジン)故に如此(カクノゴトク)の苦を請ルと思ひ侯はゞ町人め持て居る銀米とは願はひで生れ付の業作(ギョウサク?)をねがひをる不便かはゆく被思召上侯而籠(カゴ)入一日二日二日は三日にしてかへせ/\と被仰出をり申たるをと古老の者共(モノドモ)又咄し聞之侯

一 高瀬に甚三郎と申たる郡リ井桶(オケ)大工罷在候のが大分殿樣の御用竹木盗剪(ヌスミキリ)申侯故被召籠置師走二十六日に毎年左樣の科人(トガニン)御直に被爲誅侯に彼(カノ)甚三郎をも被爲切侯筈に而目をゆはれ乍罷在申侯は此(コノ)甚三郎は國侍の中にもけな/\(ゲナ)敷者に而侯を明年は高麗(コウライ)へ被遊御陣立侯と承侯御生し置被召連侯はゞはめ草に被成可申者をとびとりごと申侯へば胴腹(ドウバラ)蹴(シュウ、ケル)させられ横道者後切ふげよ引のけをれと被仰出其日不被遊罷在侯を生所在所へ預けさせられ被召置侯處に翌年高麗(コウライ)へ被召連侯に清正樣蔚山(ウルサン)に被遊御籠城(ロウジョウ)侯を漢南(カンナン)人百萬とやらにて取巻き御兵粮をも無御座被爲及御難儀侯處に城かげにひるいね仕罷在申を清正樣被遊御覽扨(サテ)も先年御切そこなはせられ侯只今可被遊と被仰出侯に甚三郎申上侯は殿樣/\御談合評定も入申間敷侯黑がね目くきをさゝせられ一文字に御切通らせらるべく眞先(マッサキ)に甚三郎罷立切崩可申と申上侯へばういやつでかした事をぬかしと被仰出城へむずと御はいり被遊御出立御切出被遊侯に石火(セッカ)矢を寄手(ヨセテ)の方より打申侯處に二三十人ほど腰より下をはら/\と打たをし侯時清正樣はさいを御ふり(采配振る)廻し被成被思召侯御了簡(リョウケン)侯間やつは動く間敷侯と被仰出侯に又打侯にはるか遠くさげて打申侯まだも動く間敷侯と被仰侯に城よりはるか上を玉飛侯時皆々入れ/\と被仰侯に城の上を飛侯玉行能侯と令了簡左樣打侯間に御切出被成侯御先きに甚三郎切て通り侯に何人といふ數は相知れず切通り申に刀を打折(ウチオリ)殿樣刀打をり申侯と申侯へは御差添被下侯故正一文字に切り通り御運を開かせ申侯と御歸陣(キジン)被遊御知行(チギョウ)可被下と被仰出侯に謹而奉言上侯は妻子持不申侯故御知行は奉望不申侯御膳朝晩のすべりの分頂戴仕御上りさしの御酒飯器一つづゝ戴き可申侯此類を御免被遊可被下侯と申上侯へば君も如奉願上侯被遊御免侯故日々三度御飯後/\に御次に伺公申上侯に甚三郎にくわせよと被仰出侯に御れき/\衆の御子達の御給仕に而日々三度づゝ右之通に而御目見え致御言に懸(カカ)りをり被申侯に越前吉次(軍兵衛)に被申侯は萬石(マンゴク)に難替御事と被存侯と被申侯由に侯        (つづく)

【拾集物語三】(二十三)渡邊玄察著

            【シャクナゲ(石楠花)の花】
シャクナゲ

【拾集物語三】(二十三)をきょうも記したいと存じます。

    『清正公阿蘇惟善を同神主に被成御取立侯事
    附り色々之事』 の続きです。
一 中の瀬川の中のあしこ爰(ココ)に中島少づゝ有之侯に當分はしちたうなど植侯此(コノ)中島は塘の曲りめ/\ に中島/\御座候此中島は大水の砌(ミギリ)此(コノ)中島/\にて波を受/\仕侯故塘切れず侯其御了簡被遊侯て中島如此(カクノゴトキ)におき/\被遊侯と從前々申傳侯

一 清正樣北半國被遊御拜領被遊御入部侯初に殘黨(ザントウ)有籐籠城(ロウジョウ)侯を二十日に落城被仰付侯其前に佐々殿へ筑後柳川殿御加兵にても落城無之從秀吉樣安國寺(アンコクジ)被爲下有籐父子下城仕り落去落着の上にて加藤小西兩殿樣へ肥後國南北御分知に被成侯處(トコロ)に清正樣に御敵對(テキタイ)はいか樣有籐一類の者共(モノドモ)有籐に取籠申侯哉隈部有籐は先書之通に從秀吉樣死罪に被爲仰付侯に籠城仕侯を二十日に清正樣落城被仰付侯と申事語傅も無之不分明に侯扨(サテ)は有籐殘敵有之侯はゞ討可申旨清正の依被仰出に餘黨(ヨトウ)御座候て籠城(ロウジョウ)仕罷在侯を御随(シタガ)へ被成侯て御座候はん五十年過侯へば實否(ジッピ)諸事不分明成ものと申傳侯は實正(ジッショウ)にて侯清正樣御入部一百餘年の事に而尤(ユウ)に侯

一 小山に石箱御座候ひたる清正坊と碑文御座候由從前々申傳侯然(シカラ)ば清正樣御領入初の小山の當邊池上の在々頭々御惡心(アクシン)の由に而無理に被誅(チュウ)侯と申傳侯是に付有德有道の智僧の御咄(ハナシ)被有侯と以前承侯有心の古老咄侯とて又咄(ハナシ)を愚老(玄察)此前相聞侯に其出家仰侯は清正公廻國の名僧にて定而何國にても臨終(リンジュウ)入定の地支無之御免許に而當國小山に入定無支侯故其分之處に福智故臨終用金不足無之侯を池上昔の者共(モノドモ)臨終跡に配分各可取之と存早々土入被有侯樣にと存侯思慮を清正坊了簡被召國の付置(フチ)不可然如此(カクノゴトク)見苦侯と思召侯はん然ば清正坊清正と御再誕故池上の下々を見苦思召侯御一念に而無事を被爲誅侯哉國の仕置(シオキ)不宜思召侯一念に而其砌(ミギリ)之仕置は有籐にてもや侯はん哉是も清正公初入領に有籐を退治侯上はと存侯とある御出家の御咄(ハナシ)に而侯ひたると又咄に聞之侯   (つづく)

【拾集物語三】(二十二) 渡邊玄察著

          【熊本城 大天守閣最上階解体】 熊日新聞本日掲載
              写真の黄色部分が解体される。
熊本城

【拾集物語三】(二十二)をきょうも記したいと思います。お読み頂ければ幸いです。
    『清正公阿蘇惟善を同神主に被成御取立侯事
    附り色々之事』 のつづきです。長文ですので小分けしております。
一 後筆に可書出を先少々書出し侯當所早川古城主早川越前守秀家天正十五(1587)年に令落去薩摩軍人發向(ハッコウ)の砌(ミギリ)は阿蘇殿御母子公に付添めぐり被致忠節侯以後國侍へは右之通に侯へ共越前守(早川秀家)へは御別條無御座侯故京都末一見無之侯に付南郷高森氏など申合侯て被致上京侯朝二條通り玉屋町に令借宅數年被罷在候を自老祖父吉次(軍兵衛)益城は宇土領分にて邪宗門(ジャシュウモン)の殿故呼下し清正公へ乍宇土領(ウトリョウナガラ)内縁を以(モッテ)奉公に有付け侯而知行(チギョウ)三百石被下櫻馬場(サクラノババ)に屋敷被下被罷在候左候而初妻無く被成申侯に柏原常安と申清正公御咄(ハナシ)の仁(ヒト)にて御前よしにて侯彼(カノ)常安娘後妻に被致侯

一 前々少々書出侯通に熊本宇土御中能被成御座候砌(ミギ)り小西公へ御加勢の天草御陣立にて御座候に右早川越前守(秀家)御供に而出陣被致侯然(シカラ)ば御取合の砌(ミギリ)各勵(ハゲ、励)み被申侯に右越前守大力打物達者(タッシャ)故清正樣御目前にて越前(秀家)は寸過之刀敵は鑓(ヤリ)にて無二無三(ムニムサン)に眞黑に突懸り侯を請迦(セイカ)し片手に鑓の鵜(ウ)の首近くむずと握(ニギ)り侯を敵矢聲を出し引てもはねてもゆるさぬ故鑓(ヤリ)を打捨(ウチステ)侯而かいふり急足の逃侯故敵の鑓をひつ下ケ御本陣に歸り越前(秀家)被存侯は國侍とて御知行被下今度御供仕侯に夫(ソノ)首成共取不申結句御目前に而はり合侯敵は討もらしつ面目なく存る/\御本陣をしほ/\として罷(マカリ)通り申を御直に越前/\と被仰出侯故に御前に畏(オソ)り申侯へば被仰出侯は扨々(サテサテ)其方は國侍程有之侯敵の首取侯事はまゝ多く侯敵の打物をねぢ取侯て敵をはだしになし逃し侯事は餘(ヨ)に又有之間敷侯成程(ナルホド)被遊御歸陣侯上に而は宜被仰付侯と被成御意(ギョイ)侯故中間之侍衆就中(ナカンズク)舅(シュウト)の柏原氏も難有被存侯此合戦に先懸(サキガ)け御法度(ハット)の處に柏原常安嫡子(チャクシ)同左馬之進と申仁抜けがけ被致數人之敵を討取終(ツイ)には討死(ウチジニ)被致侯彼(カノ)左馬之進は數度御用戰に手柄を被致侯けな/\(ケナゲナ)人にて侯由にて清正公殊外(コトノホカ)御をしみ被成侯左馬之進などに御付被成侯御鐵炮頭假名(カナ)も令失念(シツネン)侯其の鐵炮頭御法度とは乍申あつたら左馬之進被致討死侯を令見殺(ミゴロシ)侯は不届に思召御座候而即座に切腹被仰付其跡御鐵炮十丁頭越前(秀家)に被仰付侯吉次(軍兵衛)事右に書出侯通に越前(秀家)とは一家の故越前舅(シュウト)常安へ清正樣より被下侯御書常安より吉次へ給り侯を愚老(玄察)迄持傳侯然(シカラ)ば清正樣は御疎筆に被成御座たると申侯へ共左は不被成御座御能書にて被成御座侯然處に藤崎古法印依御所望進侯

一 清正樣詫摩中の瀬只今の塘川御ほり沼田を能地に被仰付諸郡より抜百姓被仰付むたに被成御入侯而當分之通と古老共申傳侯     (つづく)