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【島津・龍造寺・大友相克のはざまで】(完)

【きょう、9:52頃の金峰山 晴れ!】
金峰山3
【島津・龍造寺・大友相克のはざまで】(完)

七、宗運、井芹、黒仁田氏と争う
「拾集昔語」などに、宗運が井芹党と戦った話が伝えられている。史料などには残されていないできごとであるが、かなり詳しい話が残っているので、「拾集昔語」によって転記する。
御船、甲佐地域に井芹加賀守を首領とする井芹党と称する七十人余りの武士のグル-プがあった。精強(セイキョウ)で阿蘇家の忠誠心も強い党であったので、阿蘇家の軍事行動に参加して戦功(センコウ)を挙げていたが、不意に島津方に味方する意向を島津方に伝え、甲斐宗運を味方につければ阿蘇配下の諸将すべて島津に服するであろうと提案した。そこで、島津の家臣が服属するよう説得のため御船城へ赴(オモム)いた。
宗運は自分を味方にしようというのは島津殿だけのお考えかと聞いたところ、宗運の態度に気をゆるめた島津の使者は、既に井芹党が島津と結んでいて、井芹党のアイディアで宗運を説得に来たことを、つい洩(モ)らしてしまった。宗運は、島津の使者に、既に老残(ロウザン)の身を養っていて、今更、島津に仕えても何の役も立てそうにないと思わせるような振る舞いをみせ、島津の役者を帰した後、その夜すぐに、甲斐武蔵守、伊勢守と協議して、井芹党ひとりひとりの住居に兵を向けて殺してしまった。
事後、宗運は、合戦の度毎(タビゴト)に勝利をもたらす働きをくれたのに、と嘆いたという。
この井芹党との争いがいつのことであったかは不明である。ある書は天文八(1539)年としている。もし、この年代が正しければ、島津と内通したというのは間違いであろう。
なお、天正九(1540)年十二月の響野原合戦の折には、井芹の人々も宗運の本営近くに陣取って奮戦している。
黒仁田豊後守(クロニタブンゴノカミ)一党を宗運が討滅(トウメツ)したという話も多くの宗運関連文献の出ている。
この話も年月は伝えられていない。話の内容からして、宗運が御船領主になって以後のことであったことは確かである。
宗運は、御船川の川遊びに黒仁田(クロニタ)の一統の人々を招待し、御船城下の宗運家臣の住まいに分宿した黒仁田の人々を、ホラ貝を吹きならしたのを合図として、いっせいに斬殺(ザンサツ)し、大將の豊後守は宗運の居館で斬殺してしまったという。
だまし打ちであるが、理由として、豊後守が日向の伊東に内応していたからと書かれているが、どう考えても、これはおかしい。宗運と豊後守は不仲だったらしく、女性問題で争ったという話も伝えられている。
黒仁田氏は甲斐氏であり、日向の甲斐氏の中では、最も早い時期、南北朝時代から阿蘇家臣として重きをなした人で、大宮司館(ダイグウジヤカタ)の守り城であった岩尾城の城主も勤めてことがあった。おそらくは、宗運との間で権力争いを続けていたのではなかったろうか。
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【島津・龍造寺・大友相克のはざまで】(二十)

【けさの日之出 7:00頃】
日之出b
【島津・龍造寺・大友相克のはざまで】(二十)

六、響野原の戦い のつづきです。
不意をつかれた形の相良の将兵は斬り立てられ、義陽(ヨシヒ)は宗運の旗本緒方喜蔵に首を打たれた。大將を失った相良の人々は散り散りになって八代へ退却した。堅志田城からも阿蘇方が出撃して追い討ちをかけ、相良の名ある武将が多く戦死した。相良家臣の戦死者は「南籐蔓綿録(ナントウマンメンロク)」などの相良家の文献に記録されている。また、諸戦記には、両軍の将兵の奮戦が語り伝えられているが、ここでは割愛する。
宗運は勝利を見定めると、経の坪という地点に味方を集合させて凱歌をあげた。
御船への引き上げに際して、宗運は出陣のときから乗っていた馬には乗らないで、他の馬に乗り、負傷者たちや、雑兵にまじって行ったという。せめて宗運の生命を、と狙う相良方の者のあるのを警戒したのであった。
相良義陽に首級(シュキュウ)は御船に運ばれたが、翌日、相良家臣が引き取りたいと申し出て来たので甲斐伊勢守が渡したという。この伊勢守も系譜は不明な人であるが、響野原合戦の報告を阿蘇大宮司惟種(コレタネ)へ報告のため矢部へ行ったのもこの人であったとされているから、宗運に重く用いられた人であったろう。武蔵守として出ている人は宗運の弟の親房が武蔵守と称したとされているから、この親房のことであろう。
義陽始め多くの相良家臣の霊を祈る祠堂(シドウ)が、豊野村に大切にされていて、十二月二日になると相良家臣の子孫の人々による供養が行われている。
島津家では、義陽の子の忠房(タダフサ)を相良家督として認め、球磨・人吉を所領として与えた。
なお、この戦いに出陣するに当たって、宗運は御船若宮八幡宮で武運を祈ったが、途中、山出を経由した。山出の大武大明神の祭礼に今日伝承されている獅子舞いは、宗運が、この宮でも戦勝を祈願し、戦後、感謝のため獅子舞いを奉納したのが伝えられているものという。この山出大武(ヤマイデオオタケ)大明神の権大宮司であった田上備後守惟清は武勇にすぐれた人で、響野原合戦にも先頭に立って戦い、相良安芸という法師武者(ホウシムシャ)を討ち取ったという。

【島津・龍造寺・大友相克のはざまで】(二十)

【けさの日之出 6:59頃 7時を切るようになりました。快晴】
日之出6
【島津・龍造寺・大友相克のはざまで】(二十)

六、響野原の戦い  のつづきです。
油坂(アブラザカ)上に相良の兵をいることを知りながら、敢(ア)えて戦うに不利な地点で戦死したのは、先年の隈庄合戦の折、味方の吉秀(早川休雲)をみすみす見殺しにしたという汚名を受けていたので、死に場所を求めたのだという説がある。この山城守(ヤマシロノカミ)は囲碁が強く、かって、有名な碁の打ち手がいて、大友宗麟がこの人に九州各地を回らせた。肥後に来て山城守と手合わせしたところ三番続けて山城守の勝ちとなった。面目ないから、もう一番とせがんだ、山城守は下手と打っては手が落ちるからと、拒否した。その碁打ちは、悔しさが高じて、帰りの船中で憤死(フンシ)してしまったという。
不意に出陣した山城守の後を追って、甲佐の将兵が油坂にかけつけたのは、既に山城守戦死の後であった。
甲佐の将兵とまだ油坂にいた相良の将兵が斬り合い、相良方の東左京進が戦死したというが、相良方は山城守を討ち取ったことで満足したのか、この地点から響野原の本営へ引き揚げ、甲佐方も少人数であったせいか深追(フカオ)いはしなかったらしい。
この甲佐攻めと同時に堅志田へも相良の兵が向かい、城を攻めたが落とすことはできなかったとする戦記もある。しかし、この日、堅志田(カタシダ)を攻めたのは島津の兵であったようだ。
甲佐が攻められ、山城守が戦死したこと、相良の兵は響野原を本営にしていることを知った宗運は直ちに御船を出て響野原へ向かった。
戦記しだいでは、既に御船城の外濠(ソトバリ)とも云うべき緑川の対岸まで島津の兵が寄せていたとも記されているが、状況を確かに伝えている史料はない。
宗運の兵力は甲斐武蔵守、甲斐伊勢守、栗林伊賀守らを将として二百であった。
宗運は山出(ヤマデ?)を経由して、田口と津志田の間を抜け、安見村から下糸石を通って、響野原へ駆け上がった。宗運方は鉄砲を打ちながら相良本営に斬り込んだとも云う。
この日は冬曇りで響野原での斬り合いの頃は、激しくはないが雨になったらしい。              (つづく)

【島津・龍造寺・大友相克のはざまで】(十九)

【けさの日之出 7:01頃 快晴!】
日之出b
【島津・龍造寺・大友相克のはざまで】(十九)

宝河内(ホウコウチ)城を島津の兵に攻め落とされたときには、義陽自ら兵をひきいて、いったんは取り戻すなど戦意を示したこともあった義陽(ヨシヒ)であるが、水俣の戦いの頃からの義陽は、どこか戦意を失ってしまったように思わせられる。
この年、十二月一日、相良義陽は、島津軍の益城攻めに参加し、八代の妙見宮で出陣式を行った後、小川から沙婆神峠(シャバガミトウゲ)を越えて、益城へ攻め下った。沙婆神峠は、標高二百メ-トルあり、下益城郡の小川町中小野(当時守山荘小野村)と豊野村下郷(当時甲佐町下江村)の境界にある。
義陽の家臣の中には、本営は峠に留めるようにと進言する者がいたが、義陽は聞き入れず、峠を下(クダ)って、峠の下に鬼迫(オンザコ)川も渡って、響野原(ヒビキノハラ)(現豊野村巣林)と呼ばれている少し高台になっている十町四方ほどの平地に布陣した。
この響野原の合戦記は幾種類かあり、かなり異なった記述もみられる。特に相良勢の兵数は一万とするものから一千とするものまであり確かなことはわからない。しかし、不確実なのは相良方の動きであり、甲斐方の動きについては諸文献とも大差はない。
相良方は、翌十二月二日の朝から、甲佐へ兵の一部を差し向け、宗運の娘婿(ムスメムコ)の伊津野山城守(ヤマシロノカミ)の守る甲佐松尾城を攻めさせた。
山城守は城を出て、緑川の川岸日和瀬(ヒヨリセ)の川原まできた。ところが、これを見下ろす油坂(アブラザカ)の上に差しかかった相良の兵が、どっと坂から攻め下った。
二百程の人数で、相良の兵数よりずっと少なかった伊津野勢は奮戦したが及ばず、大將の山城守も戦死した。    (つづく)

【島津・龍造寺・大友相克のはざまで】(十八)

【きのうの朝焼け 6:28頃 三日月が右上の確認できます。】
朝焼け
【島津・龍造寺・大友相克のはざまで】(十八)

六、響野原の戦い  のつづきです。
しかしながら、こうした和平も表面的、一時的なものに過ぎなかった。天正八(1580)年五月になると、島津の部将新納忠元(ニイロタダモト)は菱刈の兵も配下に組入れて、芦北宝河内(ホウコウチ)の相良方の城を攻め落とすなど、いよいよ相良領に兵を入れ始めた。
九月に入ると、水俣攻めを企画して、芦北の佐敷や湯浦(ユノウラ)を占拠しようとしたが、相良方の芦北衆などの防戦で成功しなかった。
しかし、翌(1581)年二月、島津軍は芦北の水俣の南の袋(フクロ)に上陸することに成功した。
相良の将兵は水俣城にたてこもった。
島津の脅威がひしひしと感じられるようになり、この天正九(1581)年春には、城親賢、合志親為、志岐鎮経(シキシゲツネ)、隈部親泰らが龍造寺隆信に臣従を誓い、甲斐宗運、甲斐親教(この時期、隈庄太郎親教と名乗っている)も臣従(シンジュウ)の起晴文を呈出(テイシュツ)している。そして、九月には、相良義陽(サガラヨシヒ)も龍造寺隆信に服属を申し出ている。
しかし、龍造寺氏の力は北肥以南へは直接には及ばず、天正九年九月十九日から始まったとされる島津氏の水俣攻めには何の作用も及ぼさなかった。
相良方は犬童美作守(インドウミマサカノカミ)らが奮戦して城を守ったが、八代を出陣して、佐敷までは来た相良義陽が、なぜか、落城まで佐敷を動かず、援軍なしで島津の大軍の包囲攻撃を受けて水俣城は九月二十七日になって、ついに開城した。戦闘の開始、停止の期日には異説があるが、九月中に戦いは終わった。水俣の落城をみると相良義陽は陣をたたんで八代へ帰った。そして八代で島津方と和平の交渉をし、人吉、球磨を相良領とし、八代、芦北は島津領とするという島津方の条件を受け入れて、島津と同盟関係に入った。                  (つづく)

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